カテゴリー「2011 ・・・渋谷川水系」の記事

暗渠ハンター 世田谷線沿線の凸凸凹凹トーク終了!

イベントの報告です。

去る2/11(祝)は、こんなトークイベントを企画実施。

『凸凸凹凹トーク~世田谷線沿線をマニア目線で見てみたら(仮)』

おいでくださったみなさま、ほんとうにありがとうございました。


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正規時間である18:0020:00は、

4人の演者が30分程度の持ち時間でそれぞれのネタをそれぞれの持ち味でご披露。

1番手は私。

2番手は今回のラインナップでは比較的アカデミックなポジションからのアプローチ、

駒見さん。

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*

3番手、Keynoteとペンを使ったプレゼン、かっこいいなあ。

荻窪さん。

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*

4番手は深掘りの吉村さん。今回も掘った掘った。

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*

それ以降は、延長戦というか二次会というか放課後というか、

お店の大きなテーブルを囲んでみんなでわいわいと話をしあう、

みたいな展開に。

そこではなんの話をしたかというと、

世田谷区民ならだれでも知ってる、という「常盤姫」がテーマ。

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お客様には区外の方も多いので、まずは駒見さんから

「名残常盤記」という常盤姫にまつわる伝承を紹介してもらいます。

 

ざっくりいうと、

・世田谷城の殿さまんとこに、奥沢城のお姫様常盤姫が側室としてお輿入り入り。

・他の側室の意地悪で、浮気話を流布され、殿の耳にも入り、あやつを殺せとばかりに大激怒。

・姫は城を抜け出、外で死んでしまったが、浮気話はうそだったことを殿が知り、たいそう悲しんだ。

と。

この話はほんとうかどうか、

真偽はともかくいったいなぜこんなに広まったのか、

姫はいったいどんなルートでどこに向かおうとしたのか、

などなどを会場のみなさんとお話しして盛り上がりました。

1時間以上やってたですかね。

 

さいごは高山が持ちこんだ「暗Q過去問題 」をみんなでやって遊んで、

23時前に終了。

 

その間、お客さまのW田さんが『暗渠マニアック!』に載せた暗渠スイーツ

「こみち」の赤色バージョンをオミヤゲとしてみんなに配ってくださったり、

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W田さんどうもありがとうございました!)



バンギャで暗ギャのMちょさんからみなさんにビジュアル系バンド「A9

(ギタリストのヒロトさんが暗渠マニアなのです)を伝道していただいたりと

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Mちょさんありがとうございました!!)

お客様どうしの交流もアツい。

 

そうそう、会場となった「ことたりぬ」さんも意欲的に取り組んでくださり、

当日は

・暗渠蓋サンドイッチ

・暗渠?的なカレーライス

の特別メニューを拵えてくださいました。

ことたりぬさん、どうもありがとうございました。

 

毎度のことながら、異ジャンル交錯トークはほんと私自身も勉強になって愉しかったです!

出演の駒見さん・荻窪さん、そして吉村さんおつかれさまでした&ありがとうございました!!

 

ちなみに私の「正規時間」でのトークでは、

『世田谷線沿線の本』に載せられなかった写真や話題を中心にお話しました。

中でも今回は特に

・「禅と暗渠」「枯山水と暗渠」

に関して考察を入れました。

「山は山にして山にあらず」と禅では言いますが、

「暗渠は暗渠にして暗渠にあらず」、と。

はい、これだけじゃわかんないですよねw

そうだそれと、みなさんから「へぇー」が出たのはこれかな。

東京都書店商業組合青年部のweb

書名から、どの店に在庫があるかを地図上で見られるしくみ。

試してみてくださいね。

 

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写真はさくらいようへいさん@kokeshijirou が撮ってくださったものを掲載させていただきました。

さくらいさんありがとうございます。

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暗渠ハンター 暗タクはじめました。

前回「下野市の下谷田遊歩道を深堀します」と予告しておきながら、諸般の事情でちょっとちがう話を挟みます。

「暗タク(暗渠拓本)」のお話です。
先日、西荻窪トロールの森で行った展示「西荻暗渠博物館」の打ち上げを敢行いたしました。
そこでの余興として、マンホール蓋や地形模型の「拓本をとってあそぼう!」ってのがありまして。
手ほどきは、トロールの森事務局代表であり杉並区文化財保護ボランティアの野田栄一さん。
そこで我々は拓本の基礎を教えていただき、いくつかの拓本道具もわけていただきました。
これ暗渠でもやってみたいよねーなんて盛り上がっていたのですが、
さっそくその翌々日、実際に暗渠拓本「暗タク」を試みてきたので、
ここにご報告しますね。
まず道具。
厳選したこれらを「暗タク七つ道具」としてみなさまにご提案しましょう。
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右から、
①拓本用紙
…書道用の半紙でもOKらしいんですが、たぶん取りたい物件が大きくて入らないんじゃないかと思って大きめの本格派のを買いました。

②新聞紙
…取りたての拓本は濡れています。それを、新聞紙に大事に挟んで持ち帰ります。
③ブラシ
…物件に掛かっている砂や小石をのぞくため。柔らかく掃いて拓本の準備をします。100均で買いました。
④霧吹き
…物件に紙をあてたあとはまず湿らせます。その時に使う霧吹き。まあ家庭用洗剤の空き容器とかでもいいんですけどね。私は東急ハンズでワンランク上のラグジュアリーでプレミアムなやつを買いました。しかし所詮霧吹きです。数百円。
⑤タンポ
…市販品もありますが、私は野田さんに分けていただいた材料で手作り。野外で拓本を展開する場合は、最低限大1個、小1個あればこと足りると思います。
⑥マスキングテープ
…これは重宝しました。なくてはならない。野外だと風で紙が乱れます。そこで予めこれで紙を物件に固定しておきます。ちなみに写真のやつは地図センターで出してる地図記号マスキングテープです‼
⑦墨
…拓本用の墨があります。これがなかなか売ってない。新宿で買おうとハンズに行ったら扱いが無くて、世界堂で買いました。

これを持って、最初に選んだ物件はもちろんあそこ‼
初台川(宇田川初台支流)のじ上流の、
階段に埋め込まれた「田端橋」遺構です。

準備風景。
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こうなりました。

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次は下流に移動して、「初台橋」の銘板。
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ね。
最後は、桃園川の「三味線橋」。
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欄干の波模様もやっっちゃった。

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帰ってきて、乾かしながら部屋に敷き詰めて一杯飲んでるんですけど、
これがなかないいきもち。
暗渠飲みをしてるみたいですよ。
次は蓋暗渠でやってみて、いろんな場所の違いを見てみようかな。
そんで、床いっぱいに敷きつめて、そこでまた一杯…。
ああ…。

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暗渠ハンター 衆楽園の上と下。

まずは告知です。

NPO法人東京まち歩き倶楽部さんによって、
「東京てくてく」という、東京の街歩きイベントが毎週のごとく催されています。
真冬や真夏は寒すぎ・暑すぎのため春と秋に集中して行われているのですが、
まあ真夏で暑んだったら、インドアで座学みたいなことをやればいいんでない?
ということで今回初めててくてく大学という催し企画が立ちあがりました。

テーマは「水」。
丸一日、何人かの講師がいろんな角度から「水」に関わるお話をします。
僭越ながらこの「てくてく大学」の1時間目と2時間目、
私が暗渠のお話をさせていただくことになりました。
まあ暗渠初心者向けの内容となるかと思いますが、
もしご興味ありましたらぜひお誘いあわせの上、お申込みくださいませ。
ちなみに3時間目には「送水口」のお話を「送水口倶楽部」のAYAさんが講師を、
「放課後」の夜の街歩きには「暗渠さんぽ」のnamaさんがガイドを務められます。

では、私もしっかり準備を開始いたします!
・・・ということもあって、今週はちょっと手を抜きますw

**********************
広尾のはずれに昔からある釣堀、衆楽園
仙台坂下の真南の方角、
南麻布三丁目にぼこんと凹みをつくるのがこの釣堀の池。
ここからの流れは暗渠となって古川(渋谷川)に四の橋付近で合流します。
この暗渠についてはもう何人もの先達が書かれているので
ここでは詳しく取り上ませんが(記事末参照)、
その衆楽園の池のすぐ下に、小さく短い開渠が。
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ちなみにこの水を持っていたリトマス試験紙でphを測ったところ、
おおむね「5」。私がこれまで測ってきた都心の湧水の傾向通り、
少しだけ酸性寄りですね。
その他COD等データも取りたかったところですが、
計測セットを持っていなかったことを激しく悔いました。

この場所、池のすぐ裏。
しかしこの水は池から流れ出ているのか、
違うところから滲み出しているのはわかりません。
ただ、この日までの数日間は雨は降っていないので、
雨水でないことは明らか。
さて真相は・・・如何に?(<手抜き)

また衆楽園の池も、地形的にはもうちょっと上流の流れがあったのかもしれません。
本村幼稚園のあたりまで遡れそう。
こんな道もあるし、
Img_0084

さて、こちらも真相は・・・如何に?(<手抜き)

より大きな地図で 広尾 を表示

ちなみにさらに詳しいご参考ブログとしては以下をお勧めいたします。

★2014.6.17追記。
この貧弱な記事を見て、暗渠界の星HONDAさんがこんなことを教えてくださいました。
オラクル来る。
HONDAさんの許可を頂いて以下転記します。
20140616_232621000_ios_2 
なるほど。上流は水が湧いていたというよりは
そして下流は以前からも健在、と。
池でなくここで湧いているんでしょうね。
それは嬉しいお話です。
そういえばずっと前衆楽園の方に「これは湧いてるのですか」と聞いたら、
もう枯れてしまって汲み上げているのです、と仰っていました。
HONDAさん、どうもありがとうございました!

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暗渠ハンター 原宿にある、もうひとつの清水川。

もう3ヵ月も前のことになりますが、
渋谷駅前の渋谷川の「蓋が開いてる」っていうんで観に行ってきました。
これは見ておかないと。
かなりtwetterをはじめとして世間の耳目を集めた事件だったので、
ここではあえて詳しく触れませんが
記念に一枚だけ載っけておきます。
Img_0004

ちょっと覗き込みづらかったですが、いい景色でした。
あんまりいい景色なんで、「沿岸」にあった「築地銀だこハイボール酒場」で
昼間っからたこ焼きにハイボールで乾杯。
渋谷川を眺めながらの特等席でした。
Img_0021

それでも飽き足りず、
今度はヒカリエの上のほうに上って眺め愛でてみました。
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さてせっかく渋谷に行ったので、
前から断片的にたどっていた渋谷川の短い支流にも寄ってみるか、
ということで今日の本題に。

***************************************

ここは4年前にもHONDAさんが「神宮前三丁目・渋谷川謎の支流」として
とりあげてらっしゃるところです。

その後、この「謎の支流」については渋谷川研究の第一人者
渋谷区郷土資料館の学芸員でらっしゃる田原光泰さんが
『「春の小川」はなぜ消えたか』(之潮)
のP54であっさりと「清水川」と書いてらっしゃいました。
この表記「清水川」を引用をさせていただきます。

清水川といえば、
namaさんがつい最近ご自身のブログで、
高田馬場にある神田川の支流」を紹介していましたが、
そんなわけで以下こちらは「もうひとつの清水川」のお話を。

さて前出『「春の小川」はなぜ消えたか』P54では、
<宅地造成によって、本来の水源よりも上に水路が延びていく現象>
を取り扱っており、
その例としてこの清水川がとりあげられています。

これを私は
【水路の上流拡張現象】
と呼ばせて頂きいくつかの暗渠の解釈に利用させて頂いております。

例1/暗渠ハンター もっと知りたい妙正寺川。蓮華寺支流と大和3丁目支流
例2/暗渠ハンター 立会川・清水池のさらに上流があった!?①
例3/暗渠ハンター 愛心幼稚園の西に続く、その先暗渠
結構この【水路の上流拡張現象】で解釈できる水路は
都内には多いな、というのが私の実感です。

今回レポのはじまり(合流点)はここから。
渋谷川の「原宿橋」。神宮前3丁目29のブロックです。
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ここに立つとどうしたってこの原宿橋の遺構、親柱に目が行ってしまいます。
そこに、写真奥からやってくる支流暗渠が一本。
近寄り分け入ってみましょう。

奥に入ると濃密な暗渠感。
Img_0040
車止めにも相当年季が入ってます。
ってか相当ほったらかしな感じが。
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閉ざされ具合がいいですね。
初めて来たときは夜だったのですが、夜はさらに雰囲気いいです。
まだわずかな距離ですが、来た道を振り返ってみます。
Img_0042
賑やかな渋谷川本川の通りとは隔絶された世界ですね。

この先は行き止まり。
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一般宅の住宅のような何かに遮られます。
Img_0044

さーてこっから先が勝負ですね。回り込んでみましょう。
次のブロックから川筋をみます。
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道路の先に窪みあり。あそこだ。

ここが窪み地点。下流方向です。
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その反対側、上流方向。
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さらに上流ブロックにコの字ウォークを続けてアプローチ。
ここですね。
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んで回れ右すると
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…消えた。

次に流路を覗けるのは妙円寺の境内です。
Img_0085
スリバチ学会で言うところの「スリボチ」。

妙円寺境内の窪みが谷頭。本来の水源はここであるはず。
ではここで先程の
『「春の小川」はなぜ消えたか』(之潮)
を参照させていただきましょう。
Img_0054
(『「春の小川」はなぜ消えたか』(之潮)より)
この図では、水路は妙円寺境内をジグザグに抜けています。
そしてこの谷頭を抜けて下(上流・方角としては南東)に
水路が続いています。
田原さんは、これが
<宅地造成によって、本来の水源よりも上に水路が延びていく現象>
の事例であるとこの本で紹介されています。

では、その水路は今…

ありました。
谷頭の延長線上に住宅区画をぐさりと不自然に切り入る暗渠。
Img_0057
この暗渠の入り口手前には
「塗りつぶされたマンホール跡」。
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中に入ります。
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かくんと曲がります。
Img_0059

右側(左岸)は駐車場になっていて視界良好。
Img_0060
この暗渠がふつうの地面からがくんと下がっているのが一目瞭然。

ここで突き当り直角に右に曲がります。
その突き当りに大谷石の護岸のようなものが見えますね。
Img_0061
アップ。
Img_0082

この駐車場を出た後一度左に曲がって、
この路地を直進。
Img_0066
なるほど、それっぽいですね。

ここいら一帯は
・「明治42(1909)年地図ではすでに住宅区画が整備され」
・「昭和3(1928)年に部分的に付け替えられた」
と前述『「春の小川」はなぜ消えたか』に書かれています。

かわったマンホールの多い道です。
コウボ菌の出芽みたいなのも。
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格子状のも。
Img_0072_2 

暗渠道はその先のT字路で終了。
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さらに上流に暗渠らしさは残ってないかと探してみましたが、
決定打あらず。
こんないい味の家ならありましたが。
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それでは、次回はまたまた「藤右衛門川」にお付き合いください。

より大きな地図で 渋谷付近の渋谷川支流 を表示

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暗渠ハンター 恵比寿のチラ見せ暗渠、「伊達町川(仮)」 

ふろっぐねすとさんという、尊敬すべき暗渠の先人がいらっしゃいまして。
その方が書かれたブログ「ぶろっぐねすと」を拝見していたら、
恵比寿ガーデンプレイスの東にある谷の記事に目を奪われました。

このすぐ南を流れる「三田用水 白金村分水」は辿ったことがありますが、
そこに隣接する、というか流れ込むこの谷は全く死角だったのです。

もうずいぶん前にこの記事を拝見して
「行きたい行きたい」状態になっていたのですが、
先日やっとその欲望を満たして参りました。
ふっろっぐねすとさんの完全なる「後追い記事」になるのですが、
この谷の景観、けっこう素晴らしいので
その感動を書き遺しておきたいを渡しも筆をとる(キーを叩く)ことにいたします。

まずはその谷頭から。
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恵比寿3ー30あたり。
ガーデンプレイスの敷地の隣のブロックからうっすらと谷が始まっています。
しかしほんとにうっすらなので谷頭から見つけて辿るのはかなり難しいですね。
私は谷の途中でこの川筋に辿り着き、上流に向かいました。

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ここから東へと谷が伸びて行きます。
ですがそう少し下流までは
ブロックのまん中を谷筋が通っているので谷底を歩くことはできません。
谷筋を何度か垂直に横断しながら、
あみだくじを辿るように下流に向かって探索していきます。

ところで。
この近辺恵比寿3丁目の旧町名は「伊達町」。
宇和島藩の大名であった伊達家の下屋敷があったことに由来します。
伊達と言ったら仙台藩だろう、と私も思っていたのですが、
伊達正宗の子秀宗が宇和島の地を授かって治めていたそうです。その後近代・明治後期以降は竹久夢二など新進気鋭の美術家たちが集まり住み、「美術家村」としても有名。

だそうで。(「恵比寿新聞」より)

これからご紹介する谷の流れも、多くの近代美術家たちが眺め愛でていたに違いありません。
仮に「伊達町川(仮)」と呼んでおきましょう。

見所が現れるのは3-24以降ですね。
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遠くに階段。湿った気がたゆとう路地。
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この谷底には輸入車多し。まあそうだよな、恵比寿だもの。
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ようやく谷底と道がリンクする3-18。
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マンホールが多くなってきたうに思えるのは
贔屓目でしょうか。

しかし谷底はまたすぐ住宅敷地に入ってしまいます。
名残惜しきことこの上なし。
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谷の上に上がって谷底を未練たっぷりに振り返るの図。
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谷の両岸は階段道ですね。

さて谷底の行く先はいずこに。
次のブロックで太い道にぶつかります。
この写真の右のほうに続きを探りに行きますと・・・。
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あった。
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場所はここ。
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首都高速2号目黒線のすぐ手前。

ちなみに下は「東京時層地図」による「関東地震直前」地図。
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「伊達跡」が四角いグリッドで残っています。
いまこの中を通ってきました。
今いる青い点は「伊達跡」と「伊達前」の境目のようですね。
この「伊達跡」「伊達前」、「昭和戦前期」の地図では
併せて「伊達町」という表記になっています。

 
もういちど谷底を見ましょう。
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見事です。
私が立っている道路を造成するときにかなり盛土したのでしょう、
谷底を見下ろすようなビューポイント。

「川があったかもしれない谷底」が
川の跡である「暗渠」となって現れる瞬間ですね。

(ぶろっぐねすとさんはここから上流を振り返ったところに見える
「怪しいトタン張りのスペース」をブログに取り上げてらっしゃいましたが、
もうそこはすでになくなってしまったようです)

すばらしい暗渠景観なのですが、暗渠を「公式」に眺められるのはここだけ。
この後は住宅ブロック内に埋もれてしまいます。
ほれこんなふうに。
写真の先が谷底であり暗渠ですが、この先は個人宅。
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途中にある駐車場に潜り込んで暗渠を確認することはできなくはないのですが、
所有者にお断りして許可を得なければいけませんね。

まあこの辺りは谷底のまわりも結構見どころはあります。
こんな家とか。
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こんな道とか。
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首都高2号目黒線にぶつかるのはこのあたり。
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この建設中のマンションの横、このあたりに流末が来ているのでは。
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首都高目黒線を越えればすぐに「三田用水 白金村分水」に合流。
合流ポイント、きっとこのあたりが怪しいですな。
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以上。
ほんの一瞬しか見られなかったけど、そして古い地図にも載っていないけど
たしかにこれは暗渠、でした。
ふろっぐねすとさんに感謝申し上げます。

より大きな地図で 三田用水白金村分水 を表示

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暗渠ハンター 田中山いまむかし

初めて行く取引先のビル。
田中山ビルという名前を頼りに神谷町から辿り着きました。
そのビルのエントランスに、こんなものがあったんです。

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「田中山の由来」と書いてある。

近寄ってみると、
地図の下にこんな文言がありました。
以下転記。
****************
当ビルの周辺および裏側の崖の上の大地を含む一帯の土地は、
大正8年(1919)に、田中平八(1866~1946)が住居と定めた処で、
終戦に至るまで、
広い敷地に山あり川あり池ありの大きな庭園があって、
「田中山」と呼ばれていました。
ここに掲げた昭和23年(1948)の実測図が

その様子を表しています。
時は移り、街の佇まいも、町名も変わりましたが、
昔の呼び名をこの建物に留めました。
1993.6.30

******************

もうこれだけで泣きそうです。
仕事そっちのけで、
これから商談するこのビルの入居社の方と田中山についてぜひ熱く語りたい。
そんな思いを胸に秘め、
このまえの休日にひっそりと再訪してみました。

まずは冒頭の「田中山ビルの由来」の
地図部分をアップで。
まずは上半部の現状図。
(といっても今は昔という現状図ですが…)

Img_0008

そして1948年の地図。(に加筆したもの)

Img_00091
この水色部分が「川あり」の部分で、
緑色部分が「池あり」なのかと思われますね。
一般の地図とは南北逆転しているのでご注意
池的なものは、崖の下のほう(写真下部・北)と
上のほう(写真上部・南)と2エリアあった模様です。

さらに東京時層地図から参考データを。
(以下「東京時層地図」から転記)

Photo

上は「文明開化期」。
地図のまんなかへん「大木邸」とある辺り。この時点でも崖下に池が写ってますね。
もともと田中さんの手に渡る前に、
崖下にははっきりした池があったようです。

そしてビルにあった地図に時代が近いところで
「昭和戦前期」が下図。

Photo_2

わかりずらい?
はいはい、南北さかさまであることを考慮して加筆すると、
だいたいこんな。水色が「川あり」で緑色が「池あり」の部分。

Photo_3

でも、この辺には最近別な用事で何度か来ているので、
ほぼこの「田中山」は壊滅状態かと想像がつくのですが…。
ではではこれからあたりの現状を探ってみましょう。

**********************************

こにあたり、以前の町名は「葺手(ふきで)町」。
それを関した建造物は田中山ビルの近辺にも結構ありました。
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田中山の敷地をぐるっと回ってみます。

北のほうには江戸見坂。
Img_0027

すごい落差っすね、先が見えませんよ。
坂にある案内柱によれば、開けた江戸の町がここから一望できたとか。

江戸見坂を下りながら田中邸の周囲をぐるっと回り込み、
ほぼ坂下にきた辺りで見えるのがこれ。
Img_0032
かつて鞆絵小学校とういう学校があった場所です。
廃墟的な。
鞆絵小学校は1991年、御成門小学校として近隣の学校と統合され
なくなってしまいました。
ってえともう23年もこのように行方定まらず存在しているのか…。

小学校跡をさらに回り込んで進みます。
横断歩道あたりが小学校の正門らしきところ。
少し凹んでいるのがわかります。
田中山から排水があったとしたらここしかないでしょう。
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ここは後で触れることにして、とにかく田中山探検。

小学校跡地を覗き込みます。
写真には写り込んでいませんが、左端にはプール跡もありました。
Img_0039

正面、平らな学校敷地の向こうに崖があるのがわかります。

手元の時層地図で見ると…(青い点が現在地)。
Img_0040
まさにあの崖下に池があったことになります。
やや興奮。

学校の南側から「田中山」中腹まで登ることができま した。
Img_0041
どうやら中腹はだだっ広い駐車場になっているようで、そこへのアプローチ登り坂。
どうやらどうやらこの先の駐車場の広い敷地が
虎ノ門パストラル」の跡地(2009年営業終了)のようです。

そういや東京に出てきたころから
「虎ノ門パストラル」って名前だけは良く聞きました。
なんか響きがおもしろいし、パストラミみたいで美味そうだし。
しかし結局私の人生とは一度も接点がないまま無くなってしまったのですね。
パストラル。
ところでほんとはパストラルって何なんでしょう?
ググってみたら、牧歌的とか田園とかそういう意味だと初めて知りました。
なんでまた神谷町のど真ん中に田園…と思いましたが
虎ノ門パストラスは1968年の創業時「東京農林年金会館」と名乗っていたんですって!なるほど。
そんで、1984年に虎ノ門パストラルに改名したと。
なるほどなるほど。いまごろになって感も甚だしい「なるほど」ですが。

田中山中腹にある駐車場ゲートまで登ると、
鞆絵小学校跡地が一望できる崖上に出ることができます。
この眺め。
Img_0043

正面の緑色に塗装されたあたりが北側の池の跡地です。
また、冒頭の田中山ビルに掲げられた地図で言えば、
その池跡からぐるっと私がいる手前まで
崖下を縫うように大小の池が連なっていたはずです。
連なりの端っこに目をやると、プール跡の横に
雨のせいか崖下の湧水のせいか、水溜りができていました。
湧水のせいではないでしょうね…。
Img_0044

それにしても、思わぬところで出会った「都心の廃校」。
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なんだかせつないようなわくわくするような、
あるいは手を合わせて何かに祈りたくなるような
不思議な気持ちになりました。

一服して、中腹の虎ノ門パストラル跡地に向かいます。
駐車場、広い!
Img_0051

視線を左に振ると出発点であった「田中山ビル」方面が見えます。
Img_0050

駐車場のさらに左側は、
期間限定店舗などに使われていたスペースが拡がっています。現在は閉鎖。
ここは一段低くなっていますが、むしろこの駐車場になっているところが
パストラル建設時に造成され盛土されたのではないかと思います。
過去の地図の等高線からして。
Img_0052

つまり、「上のほう」の池は上の写真の奥辺りにあったと推測できます。

そこでこのツイートをご覧ください。
田中山でライブ風景を小出しにツイートしていたら、
暗渠・河川仲間のリバーサイドさんからリプいただきました。

Photo_4

リアルで田中山の中に入って遊んでる!

そのあと何度か再リプいただきました。
どうやらリバーサイドさんが幼いころ遊んだのは、
ここにあった池なのではないでしょうか。

田中山。
しばらくゆっくりと想像してみます。

さて気になるのはそのあとはその水の行方。
昭和の時代には暗渠らしい暗渠はなかった、
というリバーサイドさんの証言。

Photo_5

でも水源あるからには排水もあるはず。

もう一度小学校の正門あたりで見た窪みに近づいてみましょう。
窪みはまっすぐ東に進んでいるようです。
Img_0068

その沿道に唐突にあった看板建築。古い町並みがあったのでしょうか。

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そのまま国道1号線を通り越して窪みはまっすぐ続きます。
Img_0070

地形的にいうとそのまま興照院というお寺さんにぶち当たり、
Img_0074

北(左)に曲がるようです。

その先には赤坂川があるはず。
(赤坂川とは鮫河の下流)
田中山からの水はおそらく、
開渠ではないにしろ
自然流下式の下水道ででも
赤坂川に繋がっていたのではないかと思います。

リバーサイドさん、貴重な証言をどうもありがとうございました。

**************

田中山のことを知らなければこんなところを探索しなかったなあ。
そして「田中山ビル」にあるお客様と仕事のつながりがなければ
田中山なんて知らないままだったなあ。
人生は思ってもみなかった出会いに満ちているものです。

より大きな地図で 神谷町 を表示

2014.3.17追記:記事公開後、リバーサイドさんから
「小学校の先の道、川ではないよ。だって桜田通りに出たところの左側、僕のおうちがあったところだもん。」
とのツイートをいただきました。
貴重な証言をどうもありがとうございます。


「(時代をお察しするに)昭和の半ばすぎには「川面」は無かった」
ということですね。
…しかし確かに現地では微妙な傾斜がありました。
と、こういう時は「下水道台帳」を参照しましょう。

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確かにこの通りから自然流下式の下水が通っていますね(青矢印)。
比高が高いところに池があるからには必ず「排水」があるはずです。
私が池の存在を確認しているのは明治のはじめです。
(それ以前は松平右近のお屋敷だったようですが池の有無は未確認です)
手元にある地図にも、「川」としての記載はありません。

そう考えると、
田中山の池の流末については
①明治の初めにはすでに下水道管によって自然流下式で排水されていた。
②もともと側溝のような小さな排水路があったが、ある時期に下水として暗渠化された。
という二つの可能性が残ります。

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暗渠ハンター 笄川でみつけたもの。3

「歩く渋谷川入門」の著者・梶山公子様らと
渋谷川の支流である笄川を半日歩いた時の再発見物件ネタの3回目。
さいごです。

1回目で取り上げた青山橋からちょっと下流。
ずっとずっと以前、こんな記事
たくさんの種類の暗渠が見られる「暗渠大図鑑」としてとりあげたことがあるエリア。
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梶山様によるとここも再開発が迫っているとのこと。
もうこの辺りを見てあるけるのはわずかな期間かもしれません。
ここ一帯は外苑西通りに沿った流れともう一本西の流れに挟まれた
水の多いところだったようです。
路地のあちこちを巡り、
古地図をみながら細かく流れを検証していたその時。
以前の記事でも写真で紹介させていただいた、
この白い舗装が施されている暗渠。
Img_0149

なんですが、よくよく見ると…。
Img_0148

あうあ!蓋暗渠部分が露出しているではないですか!
もともと蓋で塞ぎその後白いコンクリで表面を舗装した、といった風情ですね。
これも気付かなかった!
幸い、さきの再開発エリアからはちょいと離れているので
すぐに消滅はしないと思いますが、
この造作からいっていつまでこの状態が見られることやらわかりませんねえ。

一連の再発見ネタはこれで終了です。
最後はオマケ。

笄川が六本木通りと交差する手前に、
「青柳」という古い和菓子屋さんがあります。
Img_0157

梶山様がご主人に事前にアポを取ってくださっていて、
この日は一行で御主人から昔の笄川の様子をレクチャーしていただきました。

ご主人のご厚意に感謝です。
青柳さんは、オリジナルの和菓子もたくさんラインナップ。
こちらは「イブモンタン」。
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…名前の由来をお聞きすると、
枯葉がモチーフだから、とのこと。
笄川に架かる六本木通りの橋裏を眺めつついただきます。
おいしかったですよ。
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暗渠ハンター 笄川でみつけたもの。2

「歩く渋谷川入門」の著者・梶山公子様らと
渋谷川の支流である笄川を半日歩いた時の再発見物件ネタを、
前回に引き続きご紹介します。

今回は根津美術館からの流れを。
根津美術館といえば、「燕子花(かきつばた)」で有名ですね。
尾形光琳の、あの金色の屏風に描かれているカキツバタの群生の絵。
たしか万国博覧会のときの記念切手の絵柄に採用されていたような記憶があります。

訪れたときはちょうど庭園にもカキツバタが咲き始めた時期でした。
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1941年に開館したこの美術館。
広い敷地には谷頭と大きな池を抱える都心のパワースポット(←これわざと言ってるんですからね、この言葉を揶揄してるんですからね、念のためw)の一つでもあります。
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池を見ると、いつも「どこから湧いて、どこに落ちていくのか」
を探ってみたくなります。
この池は広いので、数か所から水が入り込んできているようでしたし、
あきらかに「お!ここでじくじくと湧いている!」というポイントもありました(嬉)。
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さて今回の再発見ネタは二つあるのですが、
そのひとつはこの根津美術館の池のさらに上流にあった池跡を見てきたことです。
根津美術館の入り口は、
前回の青山橋から骨董通りを結ぶ道(そう、Blue Note東京がある道)が通っていますが、
その道と根津美術館の池を結ぶあたりが「がり」っと道路ふちから絶壁になっているんですね。こんな。
Img_0054

崖下に降りて「東京時層地図・関東地震直前(大正5-10年)」を立ち上げてみます。
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画面の青いピンが現在地。
右上にある細長い池が根津美術館の池。
その同じ谷沿いを伝ってちょっと左に行ったところにあるのが、
すでに消滅してしまった池。
同じく「東京時層地図」の「昭和戦前期(昭和3-11年)」ではすでに
この池は地図から消えていますので、
大正の終わりから昭和の初めに無くなったと。
もしかしたら関東大震災のガレキで埋められたという可能性もないではないですね。

現地はすでに何事なかったように普通に住宅。
下の写真、道路の右側一帯が元・池です。
Img_0058

…え?「再発見!」というには地味すぎますかw?
気にせず行きましょう。次は見た目も派手ですし…。

次の再発見ネタは、根津美術館の池の出口にありました。
池から水が出ていくのは、ここです。
美術館敷地の東の端。門のあたりです。
Img_0101
ここから、こんな道を通って笄川に向かうものだとずっと思っていました。
Img_0103

しかし。この道の左横はぐぐっと抉られて小さな崖が続いています。
こんな。
Img_0102

崖はしばらく道沿いに続きます。
Img_0107

…不覚だったなー。以前カケダシの頃にここ通っているんですが、
気が付きませんでした…。
おそらくこの崖の下を流れていたんでしょうねえ…。

どうです、派手でしょう?
なんでこんなん気が付かなかったんだと、
私のマヌケさを「再発見」する結果になりました…。

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暗渠ハンター 笄川でみつけたもの。1

春のある日、「歩く渋谷川入門」の著者・梶山公子様たちと
渋谷川の支流である笄川を半日歩いて参りました。
(梶山様、たいへんお世話になりました。どうもありがとうございました)

笄川の源流は鹿の角みたいに枝分かれしておりますが、
そのなかでも今回は
外苑前駅すぐそばの梅窓院からの流れ&根津美術館からの流れ
を中心としたフィールドワークです。

私にとっても笄川は久しぶりだったので、いろいろな発見がありました。
以降3回ほどに分けて、ポイントを絞ってご紹介していきます。

1 青山橋下の流れ
梅窓院を下っていくと、青山橋という陸橋があります。
青山・原宿あたりの丘と、青山墓地の丘を結ぶ陸橋道。
ここからの眺めが劇的に変化しました。

私が初めてこの青山橋下の笄川を意識したのはこの時
こんな形で笄川が残っていました。2009年の秋のことです。
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この後、2011年の正月にここを見に行ったら、こんな。

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すっかり「包囲」されてしまって。
もう風前のともしび…。

そして今回が、これです。
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立派なマンションが建っちゃった。
諸行無常。

ついでにちょっとオマケ。
09年、青山橋のちょっと下流のY字路に、こんな井戸がありました。
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それが
11年にはこうなって、

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いまはこうなってます。
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暗渠ハンター 玉名川に流れ込む樹木谷の池を見た。

玉名川のことを。

以前カケダシのころ、八芳園から追ってみたことがありますが、これはあまりにもテキトー過ぎました。

その後2年以上月日が流れましたが、その間に八芳園の南にある明治学院大学のさらに南、白金台2丁目・玉名川の主水源となっていた玉名池の跡を「スリバチ・フライデーズ(スリバチ学会のサブユニット的存在で、金曜が休日の方々中心のフィールドワーク・グループ)」の方々にご一緒させていただいて探索したりもしてみました。
(だからといって最初の記事に訂正やら追加やらしていないところが非常にユルいんですが・・w)
その他、梶山公子さんの書かれた「歩く渋谷川入門」を読んだりなどしていつかさらに玉名川についての見識を深めるべくフィールドワークの機会を伺っていたところ、たまたまこの近くに用事もできたので、勇んで現地にGO!

ただし限られた時間しかなかったので、的を絞って明学キャンパスの桜田通りを挟んだ反対側、高輪1丁目を水源とし清正公前交差点付近で本流にあわさる支流をターゲットにしました。
このあたりは大変地形的にも面白いですね。
高輪台交差点からヘアピンカーブを描いて三田用水は北上してきますが、もちろんその道は尾根筋。そこから西に向かって急斜面が続くのがこのあたりの特徴です。
素敵。

「もしかしたら何箇所か水源があるかもなあ」と思って、敢えてあらかじめ水源を特定せずに出かけたので、
これは!?と思う崖を見つけては降りてみたり登ったりしてみました。
少々革靴ではきつかったけどw

そんで、のっけから話題がずれますが、高輪台駅から現地に向かう途中であったとても気になるとんかつ屋さん。仙成屋さんというらしい。
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このへんのサイドメニューが大変イカしてます。
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いつか来てみることにします!

さて本来の目的に戻ります。
三田用水から西の崖には、黄梅院、円眞寺など境内から谷底へとアプローチしてみましたが、スリバチ地形こそ楽しめるものの水源とおぼしきものは見当たりません。
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どっかもっとないもんかね決定的なところは…。
と物欲しげに歩いていると、はたして!
高輪1-26にこんな路地を発見!期待が高まります!この細さ。
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奥は方形の石畳。
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その先はジェットコースターと見紛うような旧落下階段。
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脇道もこんな塩梅でさあ。
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階段からの着地点がマンホール、ってちょっといいなあ。
しかも古い枠付きのマンホールだし。
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しかし。このあたりの斜面&谷底は墓地ばかりです。
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墓地からさらに低地に抜ける路地は結構暗渠指数高めの見てくれなんですが…。
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水源とはいわないまでも、尾根から何らかの排水路はあったのかもしれませんね。
ちなみにこの辺りは古くは「樹木谷」と呼ばれていたところ。
これら斜面一面に木が生い茂っていたのでしょうね。
そうなるともう立派な「山」ですね。

このへんをさんざうろうろしてたどりついたのが正満寺というお寺。
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リンク先のホームページも立派なんですが、この中の見出しに「住職の趣味」ってのがあって、なんだなんだと期待を膨らませてクリックすると
「アクセス権ないよ、アナタ」的に拒否られてしまう、という罠ありw

ここは、入口こそ国道1号線に面しているものの背後は厳しい崖になっています。
その崖下の窪みに墓地があるのですが、その一角に大きな池がありました。
これが玉名川のもうひとつの水源に間違いないでしょう。
(うっかり「写真を載せていいかどうか」の許可は尋ねていなかったので、掲載は差し控えますね、残念ですが… ご要望があれば個別にご覧いただけますがw)
たっぷり水量があって、池の真ん中にはごぼごぼと水が出ているようにみえます。
…でもあんまりにも立派なごぼごぼなので、たぶんフェイクだと思われ。

さあこの池からどんなふうに流れ出していくのでしょうか。
外から敷地の周りをたどっていると、道路脇の衝立みたいな物体の裏に
暗渠テイストの道がありました。
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この奥の塀の向こうはまちがいなく正満寺の池の端です。
奥に進んでみましょう。
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この塀の向こう、水源。池。正満寺!
(興奮すると、助詞が邪魔になるものなのですねw)
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さきほどの暗渠道の入り口に戻ってみます。
暗渠道から正面に続く道はこんな具合になってます。
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この無駄っぽさが川跡らしさを盛り上げますね。
この道を下流方面に歩いていきます。
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お、なんか途中盛り上がってるけど橋跡でもあったんか?
右側の住宅も護岸的なものや川面に降りるのに使ったのかもしれない階段がいくつか見られます。

そしてその先。
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ここからは、大規模マンションが数件ならび、おそらく盛土や緑地スペース造成など繰り返され意図的に地形が変えられているようです。
しかしながら現状から察するに、流路はここから左に曲がり緑地スペースから源昌寺という寺の横または中を通って国道一号線に出るのではないかと思います。
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国道一号線の流路上には、向かいの丘から来た排水溝と思われる暗渠も。
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そして国道1号線。もうすぐそこが、八芳園の池から出てくる玉名川本流との合流地点、清正公の交差点です。
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清正公交差点手前には、こんな土地も。
左が国道、右は崖です。
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奥の建物裏に入っていくとこんな風景が。
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ここが流路だったのかも知れませんね。
それにしても崖面は見事な斜めレンガ積み。
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それと、ちょうど本流と合流するあたりによくわからないけど気になる物件がありました。
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上の写真のまんなか(歩道と車道の境)にある細長くて上に出っ張った排気口みたいなやつ。
近寄ってみると、上部が網状で底の方が覗けます。
共同坑のようですが、水もありますね…。
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溜まっているだけなのかそれとも流れているのかはわかりません。
んー、川跡と何か関係があるんだろうか。
わかりません。これは今のところ謎のままにしておくことにします。

そして流路は、本流とついに合流し国道1号線東の低い脇道に。
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住所では高輪1丁目。
盛土された国道一号線と、高松小学校の丘とに挟まれたエリアがここ。低層住宅が集まる、なんかいい雰囲気の一角です。
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井戸も健在。
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お、これは「東京の水2005」でHONDAさんも書かれていましたね
たぶん玉名川はこの辺りを通っていたのでしょうが、明確な流路はわかりません。
ただHONDAさんもリンク先のシリーズで書かれているように、水が豊富であちこちに水路があったのかも知れませんね。

ここを抜けたところ、盛土の国道1号線の下には連続麻雀牌マンホール。
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うーん、水コン協の方には「これは下水道の交差してるところ」と教わったんだけど、下水道台帳を見ても交差の痕跡はないなあ…。
やっぱりちがってるんだろうか…。

そして玉名川は再び国道一号線の西に渡っていきます。
この先まっすぐ。
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写真では左側が崖。崖上は都の白金職員住宅。
この崖下を縫うように古川に向かっていきます。
この歩道がきっと水路跡でしょうね。
まるでひよこのかくれんぼですなw
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このあとは一部ちょっとだけこの道を外れ、また戻ってあとは古川まで一直線。

私は見落としましたが、さきほどのHONDAさんによるとこの道からちょっとだけ離れるところ・立行寺の付近で橋の遺構が見られる、とのことでした。

さてあとは一気に下って古川との合流口。
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そして古川にかかる首都高速の、美しい橋裏を見上げてみましょう。
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…そういえば最近橋裏特集やってないなあ…。
それに、以前は橋裏とあらばぱしぱし写真を撮っていたのですが、ここ最近は
「かつての川の上に架かる橋の、橋裏」か
「単なる高架橋だけどよっぽどかっこいい橋裏」しか撮らないようになってきてしまいましたw。

それでは、久々に暗渠ANGLEを。
細い線は玉名川本流、
太い緑色の線は今回のメインである樹木谷からの支流です。

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そして地図。

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