カテゴリー「2056 ・・・石神井川水系」の記事

暗渠ハンター 競馬場を横切る板橋の暗渠

よくこの拙なるブログにコメントをくださるholiveさんという方に教わった暗渠を交えて、
東武東上線大山駅の北側にある2本の暗渠のことを書こうと思います。
(ここは暗渠吟遊詩人・yatoloveさんの「水徒然」でも取り上げてらっしゃいました
1 石神井川氷川町支流(仮)
この付近には、2本の暗渠があります。
一つは、「東京時層地図」にも載っている水路の暗渠。
こちらは千川上水からの分水が谷を伝って降りていくようなやつ。
2画面で見るとこれこれ(下の画像の左側)。
20151024_020622000_ios
これは前から気にはなっていたんですが、
今回重い腰を上げてようやく辿ってみたのでした。
千川上水からの分岐点はここ。
Img_2874

写真の足元が千川上水で、奥に向かってまっすぐに流れていきます。
写真まんなかへんの、小さい白い人が立ってるところが分水点。
ここから左へと支流は落ちていくのです。
実際現地に立つともう「川とかあったでしょ?あったよねえ?」的な
美しい谷が目の前に広がります。
下流へと進んでちらと振り返ったのがこの写真。
Img_2873
そう、道端に、水道局があるのです。
先に進んでみましょう。
不自然に広い道から左右に道が振られるY字路。
たっぷり妖しいですね。
Img_2878
さて暗渠道はどっちでしょう?
正解は、左。
下っていくと、かなりの谷間地形を楽しむことができます。
Img_2882
まあこっちの川はあまり暗渠的に顕著ではないので、
さくっと済ませちゃいましょう。
その先板橋第九小学校の横を抜け、石神井川の彎曲部分に合流。
古地図だとまっすぐ合流ですが、
現場の雰囲気だと右にくいっとまがってこっちの流路もありかな、と思います。
Img_2896
こちらは、千川上水の余水吐、といった意味合いの水路だったのでしょうか。
余水があったかどうかはちょっと疑問ですが。
2 石神井川板橋競馬場支流(仮)
さて今日のメインはこっち。
冒頭の、holiveさんとyatoloveさんのご指摘のやつ。
たぶん石神井川に落ちていく直前の経路は同じ。
しかし、ここに西から流れ込んでくるんですよね。
下流から辿ります。
この暗渠は写真の足元からこの正面のマンションにぶちあたって左折。
Img_2902
ぐるっと敷地を回り込み、この緑色のガードレールの右側をいく、と。
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そして不自然に歩道が狭くなる箇所を左に。
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(上流から下流を見ています。すなわち下流から見たら上流は「左折」)
その先には古いクリーニング屋さん。
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薬局の角をまた左に曲がって、ここを右?
(写真では正面の、斜めに傾げて切り込む区割り)
Img_2910
このブロックを上流に、コの字ウォークで回り込むと、キタ。
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明確な、それでいて静かな、感動的な、暗渠の光臨。
なんとその傍らには銭湯「一の湯」まで!
Img_2914_2
 
いやー鄙びてて好みの暗渠だなあ。
(好みの暗渠に出会うとしゃがむ癖)
Img_2920
道を挟んで上流にも延びています。
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四角い蓋の前後は、うすーく凹んだ溝が続くので、
これが主たる水路かと思ってしまいますが、
蓋の下にもU字溝が通っているようなので
この薄い凹みはどうやら「U字溝のふた」のようですね。
も1ブロック続いて、最後にあらわになるのはここ。
Img_2930
さすがにこの先は進入できないのでさらにコの字ウォークを試みますが…。
崖。
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しゃーない、これを登って、さきの暗渠の続きを覗きこみます。
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続いている、ように見えます。
この崖下が、始点なのかな。
しかしここで湧いていたか、それともこれら周辺住宅の排水路だったかは不明。
それにしてもこの崖。
昔はどんなだったんかなと「東京時層地図」で調べてみると、
なんと板橋競馬場のトラックの真上。(赤丸が上の写真の現場)
1_2
…トラックがこんな崖の上ってありえんだろう、
全部この高さならわかるけど、
トラックをぐるっと回った反対側は、さっきまで辿ってきた低い土地だから。
いったいこれ、どういうこと?
と思って近くの図書館に入ったら、しっかり答えが見つかりました。
それは『創立50周年 中板橋のあゆみ』(中板橋町会)に載っていた記事。
これによると、
「この馬場の特色は、
日清・日露の苦い経験から平坦なコースでなく二か所に大きな起伏をつけ
馬の強脚・俊足を試すにはうってつけで、他の馬場よりもすぐれており…」

とあります。
へえー‼わざと起伏を付けたトラックを作ったんですね。
かなり特異なトラック(現代比)だったのですね…。
面白いエリアでした。
改めて、教えてくださったholiveさまに感謝です。
…おまけ。
帰りに中板橋方面にも行ったのですが、
石神井川近くの本屋さんの脇にこんな「蓋暗渠」が。
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どこからながれてくるのやら…。

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暗渠ハンター やとじぃさんに教わった、あげ堀かと思ってた支流

2014最後の更新は「やとじぃ」さんの話で〆るとしますか。

暗渠者の間では「練馬の暗渠にめっちゃ詳しい」と評判の
「やとじぃ」こと平田英二さん。
その方のwebを拝見していて、どうしても気になる場所がありまして。

そのやとじぃさんのブログによると、
「練馬高野台の近くの八幡神社のあたりにある流れは、近くの池からの湧水である」
とのこと。

こう書いてしまうとなんでもないんですが、
この場所、この地形からして
てっきり石神井川の揚げ堀かと思っていたんですよね。
それだけに衝撃が大きくこれはもう直ぐにでも行かねば! と。

で、行ってきました。
神社から下流はまさに「揚げ堀」的な暗渠がたくさん残っています。
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だけどこれ、あげ堀じゃなかったんですね…。

やとじぃさんの情報を頼りに水源方面をたどります。
が、八幡神社から上流の流れはほとんど痕跡はありません。

それでも地形を頼りにたどっていくと、果たして。
水源地であった池の跡・市杵島神社。
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なんか「じぶんの頭の中の誤字脱字」を上書きできたようで清々しい気分。

その後、ある方のお計らいにより
武蔵野市水の学校」にて講師をなさっている
平田(やとじぃ)さんご本人にとうとうご挨拶することができ、
こちらも永年の想いを果たした気分。

やとじぃさんに敬意を表し、
私の中では「石神井川 高野台やとじぃ支流」と呼ぶことにしようっと。

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みなさま、本年もご贔屓いただきまして、まことにありがとうございました。
よいお年をお迎えください。

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暗渠ハンター ふと見つけたアリバイ。滝野川3丁目支流

以前、滝野川3丁目で出会った川跡らしきものについてこんな記事を書きました。
(記事中の「3」の章です)

この記事では「ホントに暗渠なのかどうかちょっと自信がない」っぽいテイストで
書きましたが、
先日家にある資料を整理していたら決定的な「アリバイ」を見つけることができたので、
覚書代わりに記しておこうと思います。

北区で買ってきた小冊子、
「北区の歴史 はじめの一歩 滝野川西地区編」(北区中央図書館)。

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これのP33に
「滝野川にあった陸軍の工場」(東京府北豊島郡滝野川村 1911年 逓信協会)
と題された地図が載っていました。
それが下。

Img_0068

青く丸で囲ったところ。水みちが描かれています。
これがまさにさきの記事で「石神井川 滝野川3丁目支流(仮)」としたところでした。

滝野川3丁目支流(仮)は、白塗りにされた陸軍工場に吸い込まれて
その先おそらく石神井川へと合わさっていきます。

はあ、なんかすっきりした。
でもこんな身近に証拠が埋もれていたという自分のフシアナ加減に
少々呆れてはおりますが…。

記事中の地図、再掲しておきます。

より大きな地図で 滝野川3丁目支流 を表示

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暗渠ハンター 板橋湧水跡めぐり 2

前回に引き続いて、
「いたばしの河川」(板橋区教育委員会)の「無名の川」で取り上げている川や湧水の断片を訪れていきましょう。今回は「上板橋」エリアです。

地図中の赤いラインが今回の「無名の川」。

より大きな地図で 練馬暗渠巡りの旅 を表示

2 上板橋あたり

2‐① 子育て地蔵脇

これです。
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上板橋駅から南下すること5分ほど。
商店街の一本裏の道に唐突に現れます。
それこそ、どこからきてどこに行くのかわからないような。
これについて「いたばしの河川」ではこう書いています。
『子育地蔵付近を源として五本欅の西側を通り、田柄川に流れ込むどぶ川』。
ちなみに五本欅というのは川越街道沿いにある、文字通り欅の大木が5本残っている場所の通称です。
このあたりの地形はわりとまっさらで谷頭らしいものも見当たらないんですが…。
詳しい状況を地形図で確認してみましょう。
東京地形地図さん、いつもありがとうございます。

Photo

オレンジの円がこの子育地蔵横の水路があるエリア。矢印がこの水路です。
確かに、うっすら凹んでいますね。
なるほどー。
まあ湧水がなかったとしても、このあたりの水をさわーっと集めていたに違いありません。
再び「いたばしの河川」をみると
『古老の記憶でもこの川は早くから下水として用いられていたようで、この川の水を何かに用いたという話は聞くことができなかった』
と記述されています。
もっぱら排水路として機能していたようですね。

では反対側(出口)のビジュアルもどうぞ。
Img_0190

2-② 茂呂山下

こちらは田柄川でなく石神井川の支流ですね。
いや支流というよりおそらく石神井川の水を一旦揚げて周囲に回した
「揚げ堀」的な用水路だと思います。
この流れは石神井川の右岸、
小茂根5丁目の大山高校あたりを石神井川と共に取り囲むようなルートを取っています。
この流れのさらに南に聳えるのが茂呂山。
茂呂山遺跡として板橋では大変有名な歴史物件。…だと思います。

下流から辿って行きます。台橋のあたりが石神井川との合流ポイント。
しかしあまり流れの痕跡が残っていない道が続きます。
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でも大丈夫。ここに「東京時層地図」にはしっかりと水路が描かれています。
Img_0007

やっと出てきました、車止め。形而上暗渠からの脱出です。
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左横にある、いかにも「水路へと降りていくような階段」が
暗渠の現実感をさらに高めてくれますね。

車止めをするりと抜けて中に入っていきますと…。
ナガミヒナゲシの花。ここを訪れたのは風薫る5月の半ばのことでした。
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なーんて花など愛でているうちにこの暗渠道はすぐ終わってしまいます。
ああ、もう出口ですよ。
Img_0016_2

このあとはまた形而上の暗渠となって湿気味橋あたりの「取水点」まで。
それにしても「湿気味(しっけみ)」。味わい深い名前だなあ。
湿気味橋の下にはおおきな合流口が空いていました。
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では、次回は志村地区まで飛んでいきます。

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暗渠ハンター 遊泉園跡とそのまわりのことなど

前回は遊泉園にまつわるお話でしたが、
今回は現地の様子を。

より大きな地図で 杉並以北でまとめてみよう を表示

1 遊泉園跡

またまたはじめから横道にそれますが、
私はこの日、北耕地川を上流に辿って現地にアプローチ。
その途中でまた日曜寺の橋跡をチェック。

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そうそう、先日図書館で見た板橋区教育委員会による「文化財シリーズ第56集 写真は語る」に、
昭和初期の日曜寺の写真が載っていました。
ちょっと著作権上問題があるかと思われますので写真の転載は控えますが、
当時のこのお寺の周りは一面田圃。
そこにぽつんと日曜寺があり、
正面にはこれとほぼ同じかたちの橋がかかっていました。
お見せできないのが残念。

本筋にもどります。
石神井川がかくんと直角に流れを変えるその突端内側に、
遊泉園はありました。この向こう側です。
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しかし。乗りこんでいってさんざん歩きまわりましたが、
痕跡をみつけることあたわず。
跡地はこんなふうになってます。
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ようやく一基の車止めを見ることができましたが、
これが暗渠かというと、うーん…。
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遊泉園の跡地には、
福泉寺というお寺が昭和17(1942)年に移転してきます。(前出「いたばしの地名」より)
それが今でもありますね。この写真の右側のところ。
Img_7769

移転・造成にあたっては結構な量の盛り土をしたのかも知れません。

さーてほんとに跡かたもなかったので、
いくつか周辺の見どころもご紹介することにしましょう。

2 中板橋駅前5連式直列マンホール

落胆しながら中板橋駅方面に歩を進めていると、
中板橋25-5、駅前至近距離にこんな路地を発見。
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すっかり「道は細いほうに行け」という暗渠者の生態が染み付いてしまっているので
吸い込まれるように入っていきます。

おおー、マンホール多発地帯ですね。
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惜しい!おしくらマンホールもどきがありました。
Img_7774
なかなか真性おしくらには出会えないんだよねーなかなか。

などと思いながら突き当たりの角を曲がって進んでいくと…。
うえっっっ!! ナンダコレ…。
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5つのマンホールが、すばる座状というより
ほとんど直列に並んでいます。

しかもその中のひと組は「真性おしくらマンホール」ではないですか!
Img_7777
これはすごいものを見た!!
(私のデジカメ、写した順に4ケタの数字が自動的に割り振られるのですが、
帰宅して整理してたらこの写真がなんと
「7777」番!さらにすげえ!!←はい、完全に私サイドの話ですみません;;;)

これは中板橋の住民の方々は大いに誇っていい物件だと思います。

3 左岸のあげ堀

最後は、違う日に撮った写真だけど近いからここにまぜちゃおう的なところ。

この近辺の右岸には、あげ堀がありました。
上流は桜台の安養院というお寺のあたりです。
安養院の中にはこのあげ堀跡が今でも残されています。

さてあげ堀というからには
石神井川の水を田圃の用水に使うために分水しているわけですが、
その分水地点から安養院の間で田柄川と交差しています。
この交差がどんな具合だったのか(立体交差?事実上合流?)は、
また回を改めて考察したいと思いますので今回はさくっとスルー。

地図によってはこのあげ堀のことを堂々と「田柄川」と書かれていたりもするし、
「文化財シリーズ第52集板橋区河川調査報告書 いたばしの河川」(板橋区教育委員会 S61 年)には両者きちんと区分されて書かれていたりします。
まあそんなふうに、このあげ堀は田柄川である・とも
田柄川とは別物である・とも言える
アンビバレンツな水路なわけです。

その「田柄川と呼ばれることもあるあげ堀」はこんな姿で最後を迎えます。
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このあと一旦石神井川に合流。川の壁面に合流口がありました。
Img_1294

さらにこのあとあげ堀は下流へと続きます。
現在は雨水をまめに吐きだすために上の写真のように石神井川との合流口が設けられていますが、
昔はここでは敢えて石神井川には接続させなかったのだろうと思います。
なぜなら、あげ堀とは
【一時的に本流を堰き止め、そこで得られた圧力で本流より標高の高い土地に水を流していく】
というある種の加圧装置ですから。

このあとあげ堀は川越街道を横切り、
Img_1286

環七沿いを北上し一旦環七の西側に出て、
直角に進路を変えて石神井川合流地点へと向かいます。
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ここは過去の地図ではこんなふうになっています。
(「東京時層地図」より転記)
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環七を東に抜けた後はようやく暗渠らしい佇まいになって
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この先で合流。
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合流地点の対岸が、遊泉園跡地となります。
おお、話のはじめに無事に戻ってきたw

最後に久々にnamaさん的にこの日たべたゴハンのことなど。
この日は東武東上線のときわ台駅に初めて降り立ちました。
食事ができる大衆食堂を探して南口に。
そこにあったのがとんかつと定食の「三笠」です。
飛び込みですが、思い切って入ってみましょう!
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日替わり定食である「コロッケととんかつ定食」750円を注文。
ラードの香りのするコロッケや、
極めてふつうの(←褒め言葉)とんかつがビールに合う良店でした。
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暗渠ハンター およぎ場、遊泉園の光と影。

板橋区中板橋。
地名に先駆けてできたのが東武東上線・中板橋駅であり、
その駅名を関してこの地名ができました。
駅の開業は昭和8(1933)年7月

さらにこの駅は、もともとはある施設へのアクセスのためにできた駅。
それが遊泉園、というプールですね。
今回の参考文献「いたばしの地名」(板橋区教育委員会)では、
プールではなく「およぎ場」と記載されているのが興味深いです。
当時はそう呼んだのかしらん。
それはともかく、およぎ場の大きさは縦50m、横25mという大きなものだったようです。
板橋区のHPには貴重な当時の写真が載っていました。
賑わってますねー!

地図ではここ。

Photo

※写真は「東京時層地図」の昭和戦前期(昭和3-11年)から転記。

ちなみに「東京時層地図」の明治の終わり(明治39-42年)地図ではまだ遊泉園は記載されていません。

Photo_2

この遊泉園のはじまりについては、
先ほどの資料「いたばしの地名」wikiの記述を比べてみると、
若干の違いがあって興味深いです。
両者から要旨を引用させていただきますと、以下のようになります。

「いたばしの地名」説>説→
・昭和4、5年頃、中板橋30番あたりに川の湾曲部に遊水地があった。
・これを、夏だけ地元の人(地主さん?)が臨時のおよぎ場として提供した。
・大人気だったので、町の有志連が出資金を持ち寄って「遊泉園」としてオープンさせた。
・利用者は下板橋か上板橋から炎天下をとぼとぼと歩いてきた。
・その後地元有志が東武と掛け合って、夏だけの臨時駅をオープンしてもらった。

wiki>説→
・大正15年、東武鉄道が中板橋仮停留所を設置、夏期のみ営業を行った。
・翌年以降も板橋遊泉園入場客の便宜を図るため、1932年まで毎年夏期に仮停留所が開設される。
・1927年(昭和2年)板橋遊泉園が開設される。

wikiの書き方だと、すでに大正15年には遊泉園の前身があったことになり、
さらに(おそらく法人として)遊泉園が「遊泉園」になったのは昭和2年、としていますね。
※ちなみに「いたばしの河川」(板橋区教育委員会)でも「遊泉園の開業は昭和2年」という記述が見られます。

一方中板橋駅の開設については、どちらも昭和8(1933)年としています。

この両者の歴史記述の違いは、
遊泉園利用者の行動の違いに直結するのでそれを想像するとこれまた興味深いです。

<「いたばしの地名」説に則ると>→
・中板橋駅ができるまでの4、5シーズンくらいは、遊泉園利用者は炎天下に上板橋もしくは下板橋から汗だくで歩いてやってきた。
(現在の両隣駅、ときわ台駅は昭和10年の開業ですが、大山駅は昭和6年の夏の終わりに開業。すなわち中板橋駅開業までの昭和7年の夏は、遊泉園利用者はきっと大山駅からやや汗だくで歩いてきたのでしょうね

wiki説に則ると>→
・遊泉園開業当初から、夏季だけでもそば(のちの中板橋駅)に電車が停まった。
(ので、何キロも歩いて汗だくになることはなかったでしょうね)

まあ後者のほうがスマートでしょうが、
もしかしたら前者のほうが
「遊泉園で涼しいひとときを!」という提供価値が
相対的に高まったかも知れませんねー。

両者の比較はここまで。

次は中板橋という駅名について。
いたばしの地名」には以下のようなことが書かれています。
・そして昭和8(1933)年の中板橋駅開設にあたって、
(たぶん東武が、誘致した地元有志に対して)駅名の即答を求め、
「下板橋と上板橋の中間なので中板橋にします」となった。

しかしこの「即答を求めた」エピソードには謎が残ります。
遊泉園という集客装置は東武にとっても重要だったはず。
なのに、なぜその名を冠しなかったのでしょうか。
地元有志も、地元資本の対立関係などがあって単純に
「遊泉園にだけデカイ顔させるかいな」という思いもあったのかも知れませんね。
これは想像ですが。

それにしても、もしこの駅が「遊泉園」という駅名だったら、
今も「板橋区遊泉園5番」とか「遊泉園30番2号」とかいう地名が残されていたかもしれないし、
「遊泉園駅前ふれあい商店街」や「メゾンド遊泉園」「遊泉園ハイツ」
なんていう集合住宅が残っていたかも知れませんね。
それはそれでちょっと楽しかったかも。

今回最後の話題は、遊泉園のさいごについて。
そんな遊泉園でしたが、昭和12年頃(正確な年は不明)には閉鎖されてしまいます。
もしかしたら、中板橋駅名を決める昭和8年くらいには
すでに遊泉園の勢いは下降していたという可能性もありますね。
石神井川の水を導いた遊泉園は、
石神井川の水質にその運命を握られていたともいえます。
谷戸ラブさんのブログでは
「近辺に移転した数軒の牧場の排水によって水質が低下した」と記されています。

さらに。
ちなみにとしまえんのプールは昭和4(1929)年に開業。
二子玉川園のプールは大正14(1925)年開業。
プール設置の時期は不明ですが向ヶ丘遊園は昭和2(1927)年開業。
昭和初期は、大資本によるレジャー施設開設ラッシュ時。
この大競争に巻き込まれ、敗れ去っていったのが遊泉園だったのかも知れません。

さてその遊泉園の痕跡があるかとかの地を訪れてみたのですが…。

という現地でのお話は、次回をお楽しみに!

今回記事の参考年表です。

Photo_2

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暗渠ハンター <脱構築版>抱きしめたいほど愛おしい、名もないどぶのことなど。

【前口上】
かつて取り上げた場所(や、書こうと思って放っておいたと場所)も、語り口やスタイル次第でリサイクルできるのでは? と思ったわけでもないですが、他所で「暗渠なんて殆ど興味ない人たちに向けて暗渠や川跡のことを書いてみたらどんな反応が来るか」という実験のために書いた文章を、暗渠ハンターの年末年始特別企画(ホントは時間がなくて短編しか書けない時の企画)として、不連続で載せていくことにします。

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せっせと都内の川跡を廻っている。
やみくもに廻ることもあるが、やはり事前に調べあたりをつけて、
「今日はここの川を廻るぞ」と勇んで探しにいくことが多い。当然そのほうが効率的だし。
しかし、稚拙ながら都内の主要な水系もおおむね把握し、
「どのへんにある水路は何川水系」と支流レベルでわかったつもりでいても、
それでも「なんだこれ」という水路に出会うこともある。
今回のこれがそんな水路だ。

Img_7780
中板橋23-4にある暗渠。
この流路を示した資料は手元になし。
だがここは地形から言っても間違いなく石神井川の支流水路の跡であろう。

写真の奥には5つのマンホールが連続で穴を穿っている。
(ちなみにこの5つのうちの一組は「おしくらマンホール」)
この形態はまず直下に下水道管が通っている徴だし、
この大変珍しい「5連」という不自然な工事跡は、なにか「ワケあり」の証拠だ。

写真をさらに注意深く見ていただきたい。
道の手前のほうに横に一本、梁のようなものが通っているのが確認できる。
これはおそらく近年までここが「はしご式開渠」の水路で、
ある時期にアスファルトで蓋をしてしまった痕跡。
しかし石神井川の支流としての記録は、どこを探しても見たことがない…。
単なる住宅街を貫く排水路の一つで、たぶんある時期に「くさくて不衛生だから」という理由で、無理やり蓋をされた「どぶ」に違いない。

そんな「どぶ」とて、思いもしなかった暗渠に出会うときは、いつも胸がときめく。
こんなところで、ひっそりと生きていたか、水を流していたか、
せっせと臭い水もがんばって流下していたか。
そう思うと、
なんだか握手したいような一言あいさつを交わしたいような抱きしめたいような…。

都内の暗渠を廻る楽しみは、
「私しか知らない」小さなどぶのような水路の発見にあるのかもしれない。

*****************
元記事は…これから書きますw

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暗渠ハンター 「暗渠本」アウトテイクその4 エンガ堀のまわりで

『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』本田創編・著 洋泉社
発売記念プロモーションの第4弾として、担当させていただいた川で字数の都合上書けなかったところを今回も取り上げます。

1 「減」の支流のその先
「エンガ堀」の項目では、「減」の支流の水源地点として
環7「武蔵野病院前」交差点のちょい南、
某焼肉チェーン店(安楽亭です)付近の窪みであろうと書きました。
何度か通ってみて、
まあ地形図で見ても現地で高低差を確認しても、おそらくここよりは遡れないだろうなと思ったからです。
さらに手元の古い地図をいくつか見ても、この窪みまで水流が描かれていたものが一つだけ見つかりました。ここ以上遡れる地図は手元にはありません。

ところが。
ある日環7を走るバスに乗っていて、環7からこんな道が続いているのを見つけてしまいました。
環7の反対側から見たところ。
Img_3081

あやしいですよねえ…。
水源と思しき窪みから、
ちょっとだけ南下したところに南から(つまり江古田駅方面から)入ってくるかんじ。
地形図を確認すると、うっすらとした谷が続いています。
Photo

GoogleEarthさん東京地形地図さん、いつもありがとうございます。

そんな「含み」を込めて、186ページの「②」という写真のキャプションを書きました。

とはいうものの、暗渠なのかどうかはかなり「微妙」です…。
現地のこの奥に入ってみると、いわゆる暗渠路地っぽいのはさっきのブロックだけ。

Img_3084

周辺は昭和な住宅地ですし、この道はその住宅地をまっすぐに進んでいます。
もしかすると住宅地として区割りしたときに作った生活排水路だったのでは?その排水が、、安楽亭周辺の窪みに一旦集まって、ここでいう「減」の支流に合わさっていた、という可能性もあるでしょう。

というわけで、確定するには証拠が乏しかったので本書では「ほったらかし」にいたしましたw

実はこれに似たパターンは「除」の支流(品川電線を掠めて江古田駅の北側まで伸びる支流)の先っちょにもありました。
この支流のさきっちょは江古田駅前の錦華学園の東角で、
錦華学園の南側、自転車置き場の方からくる流れと、
錦華学園の北側、浅間神社裏からくる流れとの二つの水源が合わさって流れていきます。

その後者、浅間神社裏には
湧水による池があって、これが水源となっていたようですが、
実はこの池のさらに上流方向、西側に向かう道は地形図を見ると
やはりうっすら浅い谷が確認できます。
Photo_2

谷の途中には銭湯(浅間湯)もありますし、この谷が排水路となっていたことは確実でしょうね。
しかしこれも、「宅地化に伴って本来水源の上流に伸びていった後付けの排水路」と想定し、今回187ページの地図には記載しませんでした。

2 「乗」の支流に合わさる5つ目の支流?
上で少し触れてしまいましたが、
本書でエンガ堀の水路を記載した地図は、
181ページの「石神井川水系の全体図」と、
187ページの「その中のエンガ堀だけの図」
の2枚があります。
後者の「エンガ堀」単独版は私の手によるものですが、
前者は本書のリーダー本田さんによるもの。

細かく見比べると前者の地図には、
「乗」の支流と本書で呼んだ、
千川通りの練馬区旭丘1-4と豊島区南長崎6-10の間から始まる支流に、
途中西の能満寺方面から合流する短い支流の支流が描かれています。

私は本の見本版が手元に送られてくるまで他のページに載る内容は確認できなかったので、
見本版で初めてこの支流の支流を見てちょっと蒼くなりましたw

ここも、地形的には浅い谷。
Photo_3

一応原稿を書く段階でもここには行ってみたのですが、決定打が得られず
「これは無いな」と思ってスルーしていました。
でも本田さんが書いてるからなあ…w
「いやまてもしかしたら何か見過ごしているかも…」と
先日改めてここに行ってまいりましたーw

本文で「エンガ堀の一大名所」としてイチ推しだったこの副支流
千川上水の分流を受けた練馬区旭丘と豊島区南長崎の境から流れてくる支流が合わさるところに、この支流の支流かも知れない谷も合わさってきます。
その地点からこの谷の上流方向を眺めるとこんな風景。
Img_6791

では遡ってみましょう。
関係ないですが途中能満寺の入り口では紅葉が大変綺麗…。
Img_6793

入り口付近にはいくつかの石仏や石碑が置かれていたので、
何か手がかりになるものはないかと探してはみたものの見当たらず。
さらに先に進みます。
だんだんと、この道よりも左側に続く住宅地のほうが少し低い、
つまり道と谷底が一致していないような気もしてきました。

唯一もしや、と思える物件はこれ。
突然現れる歩道と車道を区分けるガード。
Img_6796

この歩道側に暗渠がある、と思えなくもありません。
その先、東電の変電所を掠め、谷を遡って右折すると旭丘小学校へ。(写真右)
Img_6802

確かにこの辺から谷が始まっているのが体感できます。

しかし、
やっぱり決定的な証拠が掴めず、
果たして流れはあったのかどうか、いまだわからずじまい、
という結論になるのでしたw

【2013.1.6補記】HONDAさんからのオラクルツイート。
Noumannji

ありました、能満寺前の道の南側に沿ってはしご式開渠が写っておりました!!
HONDAさん、教えてくださってどうもありがとうございました!
さすがだなあ…。
エンガ堀の地図は、増刷になったときに追記させていただきます;;;

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暗渠ハンター 「暗渠本」アウトテイクその3!エンガ堀電線工場のなぞ

おかげさまでいよいよ本日発売となりました、
『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』本田創編・著 洋泉社。

告知をリツイートしてくださるお仲間の皆様、
そしていつも当ブログをご覧いただいている皆様に、改めて感謝申し上げます。

発売記念プロモーションの第3弾として、今回も担当させていただいたパートの中で字数の都合上書けなかったところを取り上げます。

↓amazonへはこちら↓

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「エンガ堀」のパートにおいて、
字数の関係上取り上げられなかったトピックのひとつに「電線問題」がありました。

本書で書いた「除」の支流(江古田駅北側から始まって小竹向原駅近くのゴルフ練習場あたりで他の支流と合流するやつ)の合流地点近辺にあったのが、この車止め。
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なんですかこのケバケバしさ…。
こんなんここで初めて見ましたし、他のどこででも出会ったことがありませんでした。

もしかしたら、役所による設置でなく私設の車止め…なのかも。
隣にあるデカイ敷地の横エリアだけこうなってるし、そもそもこの敷地は何…?

そう思ってまわりこんでこの敷地の主を確認すると。
品川電線株式会社
Img_2543

さっきの車止めが昔懐かしの「電線マン」に見えてきました♪
この電線っぽさ(←いつの間にかそう断定してる)は、やっぱり私設なんだと思いますw

…ん?ところで、電線…?。
そういえば、玉川用水が西新宿、文化服装学院のところで代々木川に分水していたところにもかつて電線会社がありました。
その名は、藤倉電線
コーポレートHPによると、もともと掛っていた水車を利用して電線づくりを1888(明治21)年に開始した、とあります。

しかし水車を使っての脱穀とかそういう農業系の業務はわかります。
農業でなくても、同じく玉川上水の余水吐のあたりの鉛筆工場とか、戦時中各所にあった火薬工場とか、えーとその「すり潰す&練る練る」系もなんとかわかる。(←ほんとにわかってるのか?)
でも電線ですからねえ…。
どうやったら水車と電線とが繋がるんだろう?とはかねてから思っていた疑問。

とググってみたら、「水車と電線」問題はあのTV番組でも取り上げられていました。
京都の津田電線という会社の社長さんが、「がっちりマンデー」に出演されていたんですね。日曜の朝もはよから「電線を延ばすとは」といったマニアックなお話を展開されています。

水車で産業!といえば「挽く・捏ねる」しか想像できませんでしたが、
水車で出る「熱」を使うんですね電線は!

代々木川の藤倉電線が水車のあった場所で事業を始めたわけはわかりましたが、
こちらの品川電線はどうなんでしょう?
いつごろからこの場所で工場を操業していたかはわかりませんが、
少なくとも「創業」は1937(昭和12)年とのことなので藤倉電線とはずいぶん時代が違っています。

果たして、藤倉電線同様この品川電線も、
「水車を使って(つまり川の流れを使って)電線を作っていた」会社なのでしょうか!?
以下、これについて考察(妄想)を進めてみましょう。

まず実際に水車がここにあったのかどうか?
東京時層地図を見てみると、昭和戦前期(昭和3~11年)の付近地図には品川電線のことも、水車のこともなんの記載もなく(そりゃそうです創業前ですから)、
Img_0077

戦後の高度成長期の地図にいきなり「品川電線工場」と現れます。
Img_0076

うーん、これでは
「品川電線はエンガ堀に架かる水車を利用してこの地で創業された」
かどうかはわかりませんね…。
地図に記号として描かれていないだけで、水車は存在したのかも知れません。

いっぽう、「近代日本の伸銅業: 水車から生まれた金属加工」(産業新聞社)
という本をざっと斜め読みすると、こんなことが書いてありました。
●明治時代から水車による伸銅産業は盛んに行われ、第一次大戦後電線の需要が飛躍的に伸びた。
●伸銅産業で水車を動力とする方式は明治後期、大正期がピークであった。
●大正から昭和にかけて、(地域的に例外はあれど)動力源は水車から電気へと変わっていった。

つまり、品川電線がこの地で創業した時期は、
すでに「水車動力から電気動力へ」と世の中(というか伸銅業界)が大きくシフトチェンジされた時期。
ですので、品川電線創業時にはおそらく動力は水車でなく電気であったと考える方がよさそうです。

これらのことから、品川電線の創業にあたっては
以下の二通りの仮説を立てることができます。

仮説1 
古い地図に水車の記述もないんだし、水車とは関係なく品川電線はたまたまこの地で創業した。

仮説2 
もともと小規模な・またはプライベートな、地図にも載らない水車がこの地にあった。そこで細々と水車を使って伸銅していたが、経営拡大のために昭和12年に思い切って品川電線を創業し、それを機に動力も電化された。

どうも真実をこれ以上追求するには、品川電線さんに取材するしかなさそうです。
もしこの真相究明が原稿執筆段階で解っていたなら
どこかで触れようと思っていたのですがそれも能わず…。
ばっさりカットとなったわけですw

まあ私的には、仮説2が当たってくれてると嬉しいのですが(笑)…。
なにかわかったら、また当ブログにてレポートいたします!

以上、エンガ堀の「電線問題」のお話でした。

より大きな地図で エンガ堀 を表示

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暗渠ハンター 「暗渠本」アウトテイクその2!田柄川下流の3支流

『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』本田創編・著 洋泉社 11/26発売!

発売記念プロモーションの第二弾として、担当させていただいた「田柄川・田柄用水」で字数の都合上書けなかったところを今回も取り上げてみます!

前回書いた通り、本書記事は
田柄川の上流のほうはざくっとカットして練馬区田柄近辺を中心に構成しましたが、
その下流にもいくつかの支流があります。
本書で取り上げた練馬区田柄近辺の支流は、刻まれた谷からググッと本流に注ぐストロングタイプの支流なのですが、
今回取り上げるアウトテイク支流はどちらかというと宅地開発に伴って水路が整備されたような見え方の、ちょっと線の細い支流たち。
もちろん谷を伝って流れてきますが、痕跡も少なく地味…。
ですが、そのぶん探す・推理する楽しみのある支流たちではないかと思います。
ではまず地形図からご覧ください。
いつもながらGoogleEarthさん・東京地形地図さん、どうもありがとうございます。

3

支流に番号を振りました。
 は平和台駅の北、北町都営住宅を流れる「北町都営住宅支流(仮)」。
 は、練馬区平和台のまんなかを流れていくから「平和台支流(仮)」。
 はこれまた練馬区氷川台を突っ切っていくから「氷川台支流(仮)」
とここでは呼ばせていただきます。

1 北町都営住宅支流(仮)

実は今回割愛しますが、このすぐ上流に注ぐ短い支流があるんですが、将来的にそちらを「北町支流」と呼びたいので、そちらと区別できるようにちょっと長いけどここを「北町都営住宅支流」と呼ぶことにしました。

地下鉄有楽町線平和台駅の上、環八の「平和台駅前」交差点から北西にほんのわずか歩いたところからこの川の痕跡は現れます。
駐輪場の合間に残る「無用の用地」。奥に向かって流れていきます。
Img_5872

地形図を見るとこの撮影位置の背後にも浅い谷が続いているようですが、どうもここより上流にはそれっぽい痕跡が見つけられませんでした。

さてこの無用の用地のその先は。
もはや暗渠サイン(暗渠アプリケーション)としての地位を確立しつつある、この仮称の元にもなっている都営住宅の中を、数本の流れになって通っていたのではないかと思うのです。
Img_5875

そして都営住宅を越える頃にはその隣の道に移動。
Img_5876

さらに北町6-25あたりからもう一本横の道にスライドして、
Img_5882

「北町西小学校東」、という倒錯した名前の交差点の向こうで
陸上自衛隊練馬駐屯地の西側に沿って田柄川緑道まで続いていきます。
この駐屯地沿いのどこかで啓志線(グラントハイツまで続いていた廃線)と交わっていたはずなんですが、痕跡は見つからず。

2 平和台支流(仮)
次の支流は、上流が二股に分かれており、
どちらも地下鉄有楽町線の上を通る幹線道路からはっきりした痕跡を辿ることができます。

ひとつは、開進第一小のすぐ北、平和台3-30あたりのここ。
Img_0503

そしてもうひとつは平和台の駅入り口真ん前、
平和台4-25にあるここ。(暗渠上から平和台駅入り口をみたところ)
Img_0525

これら二本は平和台4-4あたりで合流して北進していきます。
Img_5899

ここいらへんは大変暗渠色が薄いところで、ちょっと辿るのに苦労します。

が、突然物陰に私を誘ってはこんな暗渠路地姿をこっそり見せてくれるところがたまりません!
いわばツンデレ支流ですな。

Img_5905

Img_5907

逆さに「水路敷」の文字が見えます。
ちなみに奥のエンジの建物の隣にはクリーニング屋さんがありました。

平和台2-36で、西の都営住宅を抜けてくる流れと合わさって、
その後環八と川越街道を横切り、
自衛隊駐屯地の今後は東端を掠めて
田柄川緑道へと合流していきます。
Img_5934

3 氷川台支流(仮)

こちらは、合流点から上流を遡ってみましょう。
仲町小学校をの中を通って合流するもの、
そして仲町小のちょっと北へ分岐して合流するものと二本あったようです。
二つの合流点は車止めがあるので比較的わかりやすいですが、
Img_5942

その先はほぼ痕跡がありません。
そこでgooの古地図(昭和38年)を引用。
Goo

まん中の赤いポインタ上が仲町小です。
ポインタの左にはしご式開渠が確認できます。
そしてポインタ右下に続いていますね…。
この先(下)が上流となっています。

確かに現地でもここが谷底。
ですがこの谷も氷川台2-11で白く大きな壁を持つ敷地にぶち当たってしまい
先を追うことができません。
Img_5962

この白い壁の敷地は東京少年鑑別所、いわゆる「練カン」。
ここを通過して、流れは氷川台4丁目に入っていきます。
鑑別所内には入れないので何とも言えませんが、
この中に谷頭があるのではないかと思います。
その先上流では古くから非常に区画が整備された住宅街で、
おそらくその排水路確保のために上流へと人工的に延びてきたのではないかと思うのであります。

先ほどの平和台もこの氷川台も、
昭和初期から住宅街として区画整理が行われてきた「台」地ですし。
(記事末の地図でも、道が「平和台1丁目交差点」と「氷川台駐在所前」交差点の二つを中心とした幾何学模様になっているのがわかるかと思います)

さてこの支流はその幾何学模様にそって回り込み、
氷川台4丁目の住宅区画を何本かに分かれて駆け上がっていきます。
一番太い支流道はここですが、
Img_5976

その北側の支流のほうが面白い!
細い道に無数のマンホールが続いています。
Img_5980

Img_0501

これら支流の上流端は、
地下鉄有楽町線の上を通る道に辿りつくまえに
痕跡を絶ってしまいます。
そのミッシングポイントは、
古くからの区画整理エリア(goo古地図)の端っこと重なります。

さて、以上3本の「線の細い」アウトテイク支流をご紹介しました。
では、田柄川のハイライト部分は『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』でどうぞ!

より大きな地図で 練馬暗渠巡りの旅 を表示


■それと、ここで『地形を楽しむ 東京「暗渠」散歩』の執筆陣をご紹介します。

■まず、「編・著」である主宰の本田さん。小学校のころから東京の暗渠を巡るひと。先日、中二のときの夏休みの自由研究で書いたという「神田川」というレポートを読ませていただいたんですが、その出来の素晴らしさに頭がクラクラしました…。
東京の水 2009 fragments 
そして本田さんの次に執筆ボリュームが多いのは、「世田谷の川探検隊」として世田谷区内をはじめ都内各所の暗渠アルキをずっとされてきた、「庵魚堂」さんこと福田さん。独特の視点と語り口が印象的で、たくさんの示唆に富むブログを書かれています。
世田谷の川探検隊 
次は、ニフティ「デイリーポータルZ」でおなじみのライター、三土さん。地図好きな方ですが、その他多方面で面白い記事を書かれています。この方の好奇心の幅広さに、好奇心をおぼえますw
デイリーポータルZ 
三土フォリオ
 
さらに、軍艦島伝道師として、そして廃墟マニアとして名高い黒沢さん。本業は音楽や映像やwebや…いろんなメディアを使って様々なコンテンツを世に送り出す「オープロジェクト」を主宰されています。
廃墟徒然草
 
それから、暗渠を歩きながらくいもののことも考える、「桃園川マスター」のnamaさん。暗渠だけでなく、消えゆくものなどを取り上げ深い考察で綴るブログは独特の味わいがあります。偶然namaさんとはちょうど同じ時期に暗渠の魅力に取りつかれたので、互いに「同期」と呼んでいますw
暗渠さんぽ
 
そして不肖・私の計6名で書かせていただいております!
あ、私が一番書いた分量が少ないですw

全編「暗渠」を軸に書いてますが、散歩好きの方、地形図好きの方、東京の風土記的なものに興味がある方、歴史好きな方などなど各方面のみなさまにきっと満足していただける内容かと思います。

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