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暗渠ハンター 浦和・藤右衛門遺文②瀬ケ崎支流(仮)

前回に続いて藤右衛門川の補記です。

今回は、この記事の後半で取り上げた
「藤右衛門川・神花レッズ支流(仮)」のさらに支流を取り上げます。
神花レッズ支流には市立木崎中のところで西から合流してくる支流で、
住所では瀬ケ崎というあたりなのでそのまま
「藤右衛門川・瀬ケ崎支流(仮)」
としていきましょう。

ここがその合流地点。

Img_5578

実は初回のときこっちの支流も目に入ってはいたのですが、
時間の制約もあったので
まず主流を網羅してこの川の体系をつかむことを優先し、
こちらは後回しにしていました。
ようやく満を持してこちらを、ということになるんですが
非常に短くてあまり見どころがないかも…。
でも取り上げないのもキモチ悪いのでやり抜きます。

まずこちら、合流地点から神花レッズ支流(仮)の
下流方向を見たところ。
レッズですねえ。だんだん自分でも思い出してきましたw

Img_5580

そして。さあこれが瀬ケ崎支流の正体です。

Img_5581
そうそう、藤右衛門川水系には雨水幹線が張り巡らされているんですよね。
Img_5582

片側だけの歩道が続きます。
Img_5587

やがてY字路となり左右に分かれますが、
その左右とも谷になっているので
おそらく両側から流れがあったのではないかと思います。
こちら左(南から西へと続く谷)。
Img_5590
こちらは谷地形以外殆ど痕跡はありません。

一方こちら右(北上する谷)。
Img_5591

この北上するほうから、先に辿ってみましょうか。

このような雨水排水施設が埋め込まれています。
Img_5592

送電線「天沼線63」をかすめて
Img_5594
側溝が続きますがやがて平地となって消滅。
劇的な展開はありませんでした。

ってこれだけでもなんですから、
去年とうとう手に入れた藤右衛門川関連の資料をご紹介しておきましょう。
その名も
「藤右衛門川改修記念 わが街25年の歩み 谷田川河川史」昭和57年 浦和市谷田川排水路改修促進会
というものです。
谷田川というのは藤右衛門川の別称で、
おそらく駒場から南、藤右衛門川と天王川が合流したあたりからそう呼ばれているのではないかと推測します。
川自体の資料というよりは、タイトルの通り
改修するときの苦労話やその尽力者による『改修、やったね!』という武勇伝、などが主です。

また逆サイドから見ると、
「藤右衛門川の川殺しの記録」でもあります。
ほんとこの川についての資料は漁ってもなかなか見つからずにいたので、
貴重な一冊。
いま「川殺し」などと挑発的な言葉を使ってしまいましたが、
これを読むと如何に周辺住民の方が苦労してきたか、
それがつぶさにわかります。
それはそのまま浦和市周辺の近代化の歴史でもあります。
なにしろ当該地域は
「昭和33年には180戸、720人で全体の90%が農地だったのに、7年後の昭和40年には550戸2300人で全体の80%が宅地に変わってしまった」(同資料より)
というありさまですから、
水と人との関係もそのままでいいはずがありません。
度重なる洪水に見舞われ、ようやく昭和48年に数十億円かけて雨水幹線工事が着工となり、
昭和56年に完成したということです。

この資料には、紅白の垂れ幕に囲まれた記念碑や、
完成記念祭時のテープカット、浦和おどりやちびっこパレードなどの写真も掲載されており、
ほんとうに街中で喜びに沸いている様子がみてとれます。

今や雨水幹線となってサイボーグと化した藤右衛門川ですが
それは地域住民の望みであり誇りであるのでしょうね。

やっぱり一概に部外者が
「川を返せ」なんて言えませんよね。

ラジカルにもならず、センチメンタルにもならず。
これからも今の川跡や暗渠をただ見つめていきたいと思います。

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