暗渠ハンター 恵比寿のチラ見せ暗渠、「伊達町川(仮)」
ふろっぐねすとさんという、尊敬すべき暗渠の先人がいらっしゃいまして。
その方が書かれたブログ「ぶろっぐねすと」を拝見していたら、
恵比寿ガーデンプレイスの東にある谷の記事に目を奪われました。
このすぐ南を流れる「三田用水 白金村分水」は辿ったことがありますが、
そこに隣接する、というか流れ込むこの谷は全く死角だったのです。
もうずいぶん前にこの記事を拝見して
「行きたい行きたい」状態になっていたのですが、
先日やっとその欲望を満たして参りました。
ふっろっぐねすとさんの完全なる「後追い記事」になるのですが、
この谷の景観、けっこう素晴らしいので
その感動を書き遺しておきたいを渡しも筆をとる(キーを叩く)ことにいたします。
恵比寿3ー30あたり。
ガーデンプレイスの敷地の隣のブロックからうっすらと谷が始まっています。
しかしほんとにうっすらなので谷頭から見つけて辿るのはかなり難しいですね。
私は谷の途中でこの川筋に辿り着き、上流に向かいました。
ここから東へと谷が伸びて行きます。
ですがそう少し下流までは
ブロックのまん中を谷筋が通っているので谷底を歩くことはできません。
谷筋を何度か垂直に横断しながら、
あみだくじを辿るように下流に向かって探索していきます。
ところで。
この近辺恵比寿3丁目の旧町名は「伊達町」。
宇和島藩の大名であった伊達家の下屋敷があったことに由来します。
伊達と言ったら仙台藩だろう、と私も思っていたのですが、
伊達正宗の子秀宗が宇和島の地を授かって治めていたそうです。その後近代・明治後期以降は竹久夢二など新進気鋭の美術家たちが集まり住み、「美術家村」としても有名。
だそうで。(「恵比寿新聞」より)
これからご紹介する谷の流れも、多くの近代美術家たちが眺め愛でていたに違いありません。
仮に「伊達町川(仮)」と呼んでおきましょう。
マンホールが多くなってきたうに思えるのは
贔屓目でしょうか。
しかし谷底はまたすぐ住宅敷地に入ってしまいます。
名残惜しきことこの上なし。
谷の上に上がって谷底を未練たっぷりに振り返るの図。
谷の両岸は階段道ですね。
さて谷底の行く先はいずこに。
次のブロックで太い道にぶつかります。
この写真の右のほうに続きを探りに行きますと・・・。
ちなみに下は「東京時層地図」による「関東地震直前」地図。
「伊達跡」が四角いグリッドで残っています。
いまこの中を通ってきました。
今いる青い点は「伊達跡」と「伊達前」の境目のようですね。
この「伊達跡」「伊達前」、「昭和戦前期」の地図では
併せて「伊達町」という表記になっています。
もういちど谷底を見ましょう。
見事です。
私が立っている道路を造成するときにかなり盛土したのでしょう、
谷底を見下ろすようなビューポイント。
「川があったかもしれない谷底」が
川の跡である「暗渠」となって現れる瞬間ですね。
(ぶろっぐねすとさんはここから上流を振り返ったところに見える
「怪しいトタン張りのスペース」をブログに取り上げてらっしゃいましたが、
もうそこはすでになくなってしまったようです)
すばらしい暗渠景観なのですが、暗渠を「公式」に眺められるのはここだけ。
この後は住宅ブロック内に埋もれてしまいます。
ほれこんなふうに。
写真の先が谷底であり暗渠ですが、この先は個人宅。
途中にある駐車場に潜り込んで暗渠を確認することはできなくはないのですが、
所有者にお断りして許可を得なければいけませんね。
まあこの辺りは谷底のまわりも結構見どころはあります。
こんな家とか。
こんな道とか。
この建設中のマンションの横、このあたりに流末が来ているのでは。
首都高目黒線を越えればすぐに「三田用水 白金村分水」に合流。
合流ポイント、きっとこのあたりが怪しいですな。
以上。
ほんの一瞬しか見られなかったけど、そして古い地図にも載っていないけど
たしかにこれは暗渠、でした。
ふろっぐねすとさんに感謝申し上げます。
より大きな地図で 三田用水白金村分水 を表示
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