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暗渠ハンター 六義園の水のゆくえ

駒込駅近くの六義園。
ここには、練馬・板橋を抜けて王子へと向かう千川上水から
掘割」で取水してここに引いてきた、という池があります。

掘割からはほぼ巣鴨地蔵通り商店街を通って巣鴨駅あたりから
六義園の池に通水されていたそうですが、
実は駅から六義園までは今ではまっ平らで
さらにデカい住宅がすぱんすぱんと立ち並び
とても水路跡を探せるような状況ではありません。
Img_0105
まあここも謎ではあるのですが難易度が高すぎます。
中学生が
いきなりオイラーの等式「eiπ+1=0」(iπは乗数)が使ってある
大学生向けの数学問題を見ちゃったようなかんじで。

もうすこし手が届きそうな謎としては、
「ではこの六義園の池の水は、どこに排出されていたのか」
です。
今でこそ下水管にということなのでしょうが、
六義園が完成した1702(元禄15)年当時はどっか見えるところに
排水していたはずです。

そこで地形図を眺めてみましょう。
Googlearthさん、東京地形地図さん、いつもありがとうございます。

Photo

黄色い楕円の上の方にあるアナボコが六義園の池。
まわりは真っ平らで「抜け道」はなさそうですね…。
右(東)には藍染川の谷がありますが、
こっちに流れ込んでいたならば谷の手前の崖のところに
もうちょっと凹みが残っていていいはず。

いっぽう下の方つまり南の方の地形にご注目。
しばらく起伏の無い台地がつづいたあと、
谷頭が現れ谷を形成しております。
これは「鶏声ヶ窪」と呼ばれる場所で、
後程お話しますが東洋大学辺りから白山を通って
指ヶ谷という谷を流れ
やがて小石川に合流する川跡があるところです。

そこで仮説。下図青い矢印のように、
「六義園の池の排水は、鶏声ヶ窪の川の最上流に繋がっている」
のではないか、と。

Photo_2

今回はその仮説を検証する短い旅となるわけです。
ふう、やっと前書きが終わった…。

六義園からの出口そのものはどこだか分りませんが、
不忍通りを越えた所でそれらしいところが現れます。
昭和小学校と東洋文庫ミュージアムの間のこのスペース。
Img_0107

ね、これ怪しいですよね。
ずいぶんまえからこのまんま変わらないし。
近寄ってみましょう。
Img_0111

まさに土地が遊んでいる「遊び場」(庵魚堂さん解釈)。
ところがこのスペースは写真の奥で終わっていて、
その向こうは小学校の校庭になってしまいます。

ただし、ここは鶏声ヶ窪の谷頭から北に延長線を延ばした
どんぴしゃの場所なので、証拠物件として認定してもいいかと思います。

ここから下流に探索を続けましょう。
ブロック裏側の道に回ってみると、
あったあった、道路に凹みがあらわれていて、浅い谷を作っています。
よっしゃ。

Img_0113

その谷から下流を見た風景は…。
Img_0116

これ?これなの?
「細路地×n個のマンホール≒暗渠」
という暗渠公式が瞬時に頭に浮かんできます。
奥へ踏み込んでみましょう。

しかしそこは、「なんかへんな路地」ではありますが
すっかり暗渠臭さが無くなってしまいます。

しかしのしかし。周辺になんと小さな橋跡が。

Img_0120
江岸寺というお寺さんの入り口です。

寺社仏閣の入り口でこのような橋を見ることがありますが
ほんとうの川に架かる橋の場合(北耕地川・日曜寺の橋など)もあるし
結界のためか周りに人工の堀を作ってそこに架けるケースもあるので
決して決定的証拠とはいえないんですけどね。

ここも六義園からの流れに架かっていた橋、
とは言い切れませんが、
まあ断片的な事実としてこの橋跡をおさえておきましょう。

ここから下流は、谷底に道がなくなります。
道沿いにずらっとお寺さんが並んでいるのですが、
ことごとく谷底はお寺の敷地内となっているのです。
はてさてここに流れがあったなら、
お寺の中を貫くというのも不自然なので
お寺のまわりとかくかくと巡りながら
下流へと流れていったのではないか、
と思うのですが証拠は何もありません。

本駒込1-7あたりから、ようやく谷底と道が一致してきます。
Img_0151
あとはこの道沿いを探りながら下ることに。

「東京時層地図」を注意深く見ながら歩きます。
あ、ここに池があった模様。
Img_0157

池跡は「長谷川百貨店」という雑貨屋さん、いや、
百貨屋さんでした。
Img_0158

人情も取り扱ってるようです。
Img_0159

その先も湿った感じの道が続きます。
先程の池からの排水はどこかにあったはずだし、
この谷底地形からいってもここが川跡を考えてよござんしょう。
Img_0160
この道、まっすぐ行くと東洋大学の正門付近にぶち当たります。
Img_0164

東洋大学の敷地の向こう側からは、
分かり易い暗渠道が始まります。
Img_0171

Img_0173

ここから下流は、いろんな方が取り上げてらっしゃるので
先達にお譲りしましょう。

というわけで、
六義園の池の水は鶏声ヶ窪を越えて小石川へ…
という仮説のもとに捜索してきました。

最初はそれっぽいサインも掴んだのですが、
途中本駒込2-18~20のお寺さんでは殆ど不明、
ただし本駒込1-27や28あたりから何となくこれでいいかもと思いつつ
最後は見事鶏声ヶ窪につながった、
という結果でありました。

より大きな地図で 文京あたり を表示

※2014.5.26追記:「新たな資料を発掘」!
コメント欄の通り、
北条光年さまから六義園の池の排水について貴重なご意見や史料の提示を頂戴しました。
私も家になる資料を漁っていたらこんなものが出てきましたので、
ここにアップしつつ本日付のコメント欄でも補足させていただきます。

以下の通り、六義園から南に下る水路を「消失水路」としてプロットしてある資料を見つけました。

「H6年 文京区景観整備調査報告書」より転記

6h

Photo_2 

※2014.6.24さらに追記:北条光年さまの研究成果!
北条光年さまより、たくさんのコメントをいただきました。
北条さまが独自にあちこちで得てきた情報を、たくさん。
さきごろそれらをまとめあげた仮説をわかりやすくご自身でコメントいただいています。
記事本編よりよっぽど北条さまのコメントのほうが
貴重だったりするくらいw興味深いものですので、
ぜひ当記事のコメント欄もあわせてご覧くださいませ。

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2055 ・・・神田川水系」カテゴリの記事

コメント

ううむ。東洋大のあの石垣が六義園につながっているとは思いませんでした~!

投稿: 大佐 | 2013年10月14日 (月) 19時50分

大佐、ご無沙汰です!
いや、繋がってるというのはまだ仮説にすぎないんですよ、状況証拠が断片的にあるだけでw
なんか決め手の文献でもあるといいんですけどねー。

投稿: lotus62 | 2013年10月15日 (火) 12時44分

駒込にも行かれたのですね。私事、今は浦和区に住んでいますが、元々は駒込の出身、今も実家は駒込です。六義園の水の行方は興味深いです。水源は千川上水からなわけですが、必要な量だけ取り入れて、あとは江戸市中へと供給しているだけだと思っていました。駒込北側の旧古河庭園の池は、明らかに邸外への流れがあり、谷田川へ合流しているのがわかりますが、六義園は園外への池からの出口となりそうな部分が無さそうです。
駒込地区もたいへん起伏激しい場所で、細かく観察すると面白そうです。

投稿: レッズ赤岸 | 2013年11月12日 (火) 21時03分

レッズ赤岸さま
これはこれは、記事の並び順までご縁があったようでなんだか嬉しいですw
六義園排水問題ですが、
やはり流れてきた水はどこかに排水し続けないと、澱んでしまうのではないかと思います。「あからさまな川」となって排水されるか、こっそりそれとなく排水されるかは別として…。
六義園の場合は、確かに流れの痕跡ははっきり残っていませんよね…。
だから「こっそり」低いほうに流していた、あるいは流れていたのではないか?というのがこの回の探索の動機でしたw
この近辺も、四方八方に起伏がありたいへん面白いですね。
そうそう、古河庭園からの流れは、namaさんがこんな記事を書かれているのでもしかしたらお楽しみいただけるかもしれません。
http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2012/11/post-027d.html

投稿: lotus62 | 2013年11月13日 (水) 19時48分

六義園の排水の行方を楽しく見させてもらいました。私は50年前に昭和小学校を卒業しました。当時の校舎は昭和4年の創立当時の校舎でしたが、記事の中の昭和小学校の空地は当時なかったと記憶していますし、校内にも水路の痕跡はまったくありませんでした。隣の東洋文庫は六義園と同じ岩崎家の創設なので、あるいはそちら側に水路があった可能性があります。ところで文京区ふるさと歴史館にある、海老床の店主が江戸末期に描いたこの辺の絵地図を見ていますか。矢端川の支流が江岸寺の前までつながっているのが描かれています。残念ながら六義園まではつながっていませんでした。私は谷田川(藍染川)の方に排水していた可能性も捨てきれません。木戸孝允邸のあったあたりに谷が入っているよゆに思えるのと、六義園の池の形からするとその方が自然な感じがします。私は六義園の池を現地調査してみようと思うのと、(六義園には昭和13年以降も千川上水を引き込んでいたらしいので)歴史を調べてみようと思っています。

投稿: 北条光年 | 2014年5月10日 (土) 21時17分

北条光年さま
ご出身が昭和小学校でらっしゃいますか!!そんな方からコメントをいただけて、たいへん嬉しゅうございます。
海老床店主の資料は同歴史館で拝見いたしました。たしかに六義園までは繋がっていないので、残念に思った記憶がありますw
確かに、藍染川方面への排水を否定する明確な証拠を私は今持っていないので、可能性はありますよね。大いに。
うーん、どっちでしょう、面白くなってまいりましたw
北条さまもなにかお解りのことがありましたら、ぜひまたご教示のほど、どうぞよろしくお願いいたします!

投稿: lotus62 | 2014年5月12日 (月) 12時34分

 5月10日に投稿した北条です。5月20日に六義園に行ってきました。東京都公園協会で発行した「六義園」を見ると、「水木家旧蔵六義園図」という図面が載っていて「、六義園完成直後の図面と思われる」とのコメントがあります。これを見ると、柳沢吉保の屋敷は、今のアイソトープ研究所の正門(ということは江岸寺のすぐそば、海老床の図面でいえば「森川様下屋敷」の所の江岸寺より)まで六義園と一体であったこと、かつその敷地全体が3~4間の堀で囲われていたのがわかります。このことから考えると、六義園の流末が矢端川支流に流れ込んでいたと考えてもおかしくないと思われます。
 また、明治32年の「岩崎氏染井別邸実測図」、「岩崎家駒込別邸実測図」(作成年未記載)を見ると、外周の掘は六義園の北面と西面にしか残っていません。東京都公園協会の人に聞いたところ、戦前は今の「染井門」(駒込寄りの門)付近から石神井川に水を落としていたと言っていました。現石神井川には高低差からいって落とすのは無理なのでこのコメントは間違いであると言えますが、あるいは谷田川に落としていた可能性はあります。(私も学生時代、六義園の管理を戦前にしたことのある人の講義を聞いたことがあるので、戦前のことがそう昔の話ではないと感じていますのと、)明治の図面から考えると「染井門」の所に六義園の流末があった可能性は高いと思います。
 結局どちらに水を流していたのかは謎のままですが、上記の仮説に仮説を重ねれば、六義園の改修と共に流す先が変更したとも考えられるのではないでしょうか。
 次は本格的にどのような文献があるのか調査をしてみたいと思います。

投稿: 北条光年 | 2014年5月22日 (木) 15時47分

北条光年さま
素晴らしいリサーチです!
ご教示いただき、深く感謝申し上げます。

いただいた史料をもとに、以下整理してみます。
*********************
●仮説A「南に流れ、谷端川に落ちる」
情報元:六義園完成直後の図面
事実:六義園は四方を堀に囲まれていたこと。その敷地が南方に展開する谷頭付近(江岸寺あたり)を含んでいたこと。

●仮説B「東に流れ、藍染川(谷田川)に落ちる」
情報元:東京都公園協会の方
事実:戦前は染井門(駒込駅寄り門)から石神井川(おそらく藍染川の間違い)に落としていた、との証言を直接聴いた。
*********************

仮説Aはまだ状況証拠しか集まっていないでので、「正しい可能性がある」という感じですね。
一方仮説Bは、固有名詞の間違いはあれ「東のほうに落としていた」と言質をとっているわけですから信憑性は強いですよね。

つまり、
「仮説Bを真説として、
①時期によっては仮説Aの状態も共存していたかもしれない。
②ある時期で仮説Aの状態から仮説Bの状態に切り替わったのかもしれない。」
ということでしょうか。
いやはや、とびきりの情報をどうもありがとうございました!

投稿: lotus62 | 2014年5月23日 (金) 12時48分

北条光年さま
家の史料を漁っていたら、記事欄末尾に追記したような資料が出てきました!(記事の追記部分をご覧いただけますか?)

「仮説A」を裏付けるものですね。
しかし、これは文京区の資料なので他区(北区・豊島区)への水路に関しては言及するはずがないことから、
「仮説B」を退けるものではありませんね。
「仮説A・B」両方が存在した、ということがどうも確からしくなってきました。
あとはそれぞれが「いつからいつまで」という時間軸の問題だけになってきたようですね。

投稿: lotus62 | 2014年5月26日 (月) 11時29分

すみません。横から失礼します。
資料を何も持っていないのでアレですが、南に向かった場合、谷端川にぶつかる前に指ヶ谷にぶつかると思うのですが、違うでしょうか。
指ヶ谷を乗り越えて谷端川に合流するとは思えないのですが。
素朴な疑問で失礼しました。

投稿: 猫またぎ | 2014年5月26日 (月) 14時20分

あ、猫またぎさんその通りです。順番でいうと指ケ谷にぶち当たりますが、最終的には(というか水系がわかるくらいのメジャーな流れとしては)谷端川に、という意味で使っています(おそらく北条さまも)。説明不足で申し訳ありませんでした。

投稿: lotus62 | 2014年5月26日 (月) 14時29分

lotus62様
私も拙ブログに北条光年様より貴重なコメントをいただきました。
谷田川・藍染川の発生が、鈴木理生氏の唱える江戸時代に治水対策で開削されたという人為的由来説だとすると、石神井川(=藍染川)に注ぐという表現もあり得ないことではないのかもしれません。
豊島区と文京区の境界(駒込1-10)辺りから藍染川に注ぎ込む支流がありますが、この支流の延長上に六義園が存在します。
白山神社近辺で東大下水:指ヶ谷支流へ注ぎ込む流れへ放出していたものとは別に、藍染川側にも放出していた可能性はあり得るものと考えらるようですね。

投稿: わんじん | 2014年5月27日 (火) 01時07分

わんじんさま
>駒込1-10辺りの支流
お、namaさんが「暗渠さんぽ」でとりあげていたこの記事のところですね。
http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2012/12/post-ad8c.html
なるほどー、ここを六義園からここを経由して藍染川に注いでいたと考えると大変興味深い!です。

投稿: lotus62 | 2014年5月27日 (火) 12時05分

 久しぶりのコメントになります。仮説A、仮説Bで分かりやすく記載していただきありがとうございます。また、猫またぎさんのご指摘のように「指ヶ谷支流」と表現した方が適切なことがわかりました。
 前回のコメントから今日まで、某大学の日本庭園史の先生へのヒアリングと資料入手、六義園及びその周辺の現地調査、六義園の事務所への再ヒアリング、東京都の緑の図書館での資料探しを行い、それなりの収穫がありました。その報告は後回しにして、インターネット上で面白い資料が出てきたのでその報告をします。それは下記のブログの中にありました。
   http://fujimizaka.wordpress.com/2014/05/25/hanamidera4/#more-1707
 「安政年代駒込周辺之図(その1)」と「〃(その2)」というもので、その出所も文末の註117に記載されていますが、私には今一つどのような文献なのかわかりません。しかしその図の中には「コノ下水ハ柳沢甲斐ノ守下邸ノ池カラ出テ来る物デ末ハ鶏声ヶ窪ノ虎ヶ橋ヘ落チルノデ・・・」と記載された水路が描かれています。つまり幕末までは少なくとも「指ヶ谷支流」に流れていたことは間違いないようです。本日の報告はとりあえずここまでとします。

投稿: 北条光年 | 2014年6月11日 (水) 20時57分

おお!すごい資料を!!私も読み込んでみます!

投稿: lotus62 | 2014年6月11日 (水) 23時00分

 今回は六義園の職員からの2回目のヒアリングの内容を書きます。1回目は事務方の職員のようだったので詳しいことが聞けなかったのですが、今回は六義園の歴史に詳しい人に話を聞くことができました。
 それによると、池の水は現本郷通りを北に向かって流れる水路に流されていたとのこと。その水路は霜降橋の所で谷田川につながっていたとのこと。山手線が通った時(1903年)にその水路は使えなくなったとのこと。駒込の古老の話でも、霜降橋に向かって立派な水路があったとの話があったとのこと。以上物的証拠はないので今一つ不安がありますが、ある時期から六義園の水は霜降橋で谷田川に流されるようになったようです。
 現地を見てみると、本郷通りは染井門の付近からわずかに北下りの勾配が付いており、山手線をまたぐ駒込橋の手前で一度上り坂になり、その先でまた北に向かう勾配になっています。駒込橋がないと想定すると、染井門付近から霜降橋まで北下がりの勾配が続いていることがわかりました。
 ついでに現地調査で分かったことに、六義園の現在のレンガ塀の外側の地盤が±20cm以内の範囲に高さに収まっていることがあります。つまりほぼ地盤高が水平であるのです。レンガ塀は六義園創設当初の堀の位置とほぼ一致しているので、堀の土手の天端の標高は少なくとも現六義園の範囲では一定であったとのことがわかりました。

投稿: 北条光年 | 2014年6月14日 (土) 08時00分

北条光年さま
素晴らしい成果ですね!
>ある時期から六義園の水は霜降橋で谷田川に流されるようになったようです
なるほど、藍染川に落ちる場合はほぼ東に向かうかとざっくり考えていましたが、
霜降橋とは…!これは意外でした。
さっそく私も現地で検証をしてみたくなっております。
どうもありがとうございました!!

投稿: lotus62 | 2014年6月16日 (月) 09時07分

lotus様
 現地調査で分かったことがもう一つありました。
 現在の池の排水は、染井門の内側の門に向って右手の建物敷地境界寄りにあります、付近には池の循環設備も設置されています。これは六義園の職員にも確認しました。公共下水がどちらに向かっているか知りませんが、公共下水につながっているとのことです。
 某大学の先生から借りてきた大正5年の「一万分一地形図東京近傍十一号」を見ていたら、22.5mの等高線が現アイソトープの敷地に谷状に入り込み、24.0mと思われる等高線がやはり谷状に六義園の南西角付近に入り込んでいるのが見られます。ちなみに六義園の北東角は24.3mと記載されているように見えます。(地図のコピーなので読みにくいのです。)東京地形地図の通りだと思うのですがお知らせします。

投稿: 北条光年 | 2014年6月16日 (月) 11時10分

北条さま
続報どうもありがとうございます。
現在の下水道台帳をみると、
やはり山手線によって「染井門→駒込橋→霜降橋」という流れは分断されてしまっているようですね。
山手線開通以前の地形がカギを握っているのかもしれませんねえ!わくわくします!!

投稿: lotus62 | 2014年6月16日 (月) 18時49分

lotus様
 江戸時代の絵図を探していたら、下記のHPの「実測改正最新東京全図」(明治40年発行)を見つけ、六義園周辺を見てみたら、なんと六義園の池の水が現染井門の位置から現本郷通りを横断し東に流れ、現アザレア商店街辺りで谷田川に流れ込んでいるのが描かれているではないですか。
 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/
 この地図の作成年は分からないのですが、この地図の発行の明治40年は1907年、池袋田端間の山手線開通が1903年ですから、山手線が開通後の発行となります。山手線が描いていないというか位置がおかしいというか、この地図の信頼性が今一つわかりません。しかし、東に流れる水路が正しいとすれば次の2つのことが考えられます。
①明治に入って指ヶ谷支流に流せなくなった時点で、霜降橋に向けて六義園の水を流し、さらに山手線ができることになり東に向けて流出先を変更した。(六義園の人の証言もこの地図も正しいとした場合となります。)
②明治に入って指ヶ谷支流に流せなくなった時点で、霜降橋に向けて流さず、この地図のように東に向けて流した。(六義園の人の証言に勘違いがあるとした場合)
 私はとりあえず、①案のような気がしますが、この地図を持って再度六義園の人と話をしてきて話の信ぴょう性を確認してきたいと思います。

投稿: 北条光年 | 2014年6月17日 (火) 10時41分

北条光年さま
この地図アーカイブもすごいですね!!!!!!!
すごすぎて実はまだ「実測改正最新東京全図」に辿りつけていません;;;w
なるほどこれでますます、染井門からの排水は確実、
①か②かに絞られてきましたね。
どうもありがとうございます!

投稿: lotus62 | 2014年6月17日 (火) 18時32分

Lotus様
 今までの検討を整理し六義園の池の水の放流先について以下の仮説にまとめてみました。
 柳沢吉保が当初作った下屋敷を以下の3つの空間に分け話を進めます。
「空間A」:北側半分の現在の六義園に相当する部分、これは主に将軍家の人を接客する空間
「空間B」:「空間A」の南側の柳沢吉保の私的な空間
「空間C」:最南端の家臣の住む空間
①建設当初、池の水は下屋敷全体を囲む堀の北側に流し、その堀の水は南面の堀から指ヶ谷支流に流していた。
②江戸時代のある時期、屋敷の空間Bの一部及び空間Cが柳沢家から他家に移った時に堀の付け替えがあった。他家に移った部分の外周の堀は取り払われ、東面の堀の南端は、土地利用上西寄りに付け替えられた。その堀は他家に移った敷地との境を一度西に向かって柳沢家の敷地の南側を流れ、他家に移った敷地の西面を南下し、他家の敷地が終わった少し先で東に戻るように流れ、元の指ヶ谷支流の位置でつなげた。
③明治になり空間A、B、Cを含め岩崎家の所有となり、空間B、Cの土地利用の変更により、上記②の堀が廃止され、空間Aの北面と西面の堀は残り、その時点で、北側の堀の東端から現本郷通りを北向きに水路で流し霜降橋の地点で谷田川に放流した。
④山手線ができた時点(1903年)では③は使えなくなり、現染井門の所から東に向かう水路で現アザレア通り商店街の一つ東側の通りの所で谷田川に放流した。
⑤その後公共下水が整備された時点で、染井門の位置から管渠で本郷通りにある公共下水に付け替えられ現在に至っている。
以上のとおりまとめてみました。いかがでしょうか。

投稿: 北条光年 | 2014年6月22日 (日) 11時05分

北条光年さま
膨大な下調べをもとに簡潔にまとめてご教示いただきました。どうもありがとうございました。
何と言っても六義園という当該物件を3つの「空間」に分けられたのは、とても素晴らしいアイデアだと思います。これで私なぞにもとても分かり易くなりました!
またそれに基づく仮説も、すっきりとしていてとてもよくわかります。

丹念に調べ上げ、ここまで辿りつかれた北条さまに、厚く敬意を表します。

投稿: lotus62 | 2014年6月23日 (月) 14時16分

Lotus様
 気になったことを思い出しました。
 六義園の建設当初の池には、現在もある滝口ともう一つ「心泉」と言われる水の流れ出る所が「水木家旧蔵六義園図」に描かれています。六義園の担当者の話しでは、これは本当に水が湧いていたとの説があるが実証されていないとのことでした。
かつて日本では湧水があるところに庭園を造ることが多くありました。「心泉」の水源が湧水であったとの説が実証されれば、六義園のできる前から六義園のある所が指ヶ谷支流の水源であったということになるのではないでしょうか。その後時代の経過と共に、六義園周辺に町屋や植木屋が増えて井戸が多く掘られたため、心泉は枯渇したのではないかとも考えられます。
六義園が台地の尾根部の平坦なところにあるため、心泉が湧水であったと考えにくいですが、以下の話しは湧水であった状況証拠と言えないでしょうか。
①某大学の先生の話しの「六義園の池の底は自然の粘土層を利用している」は不透水層が割合浅いところにあることを物語っているのではないでしょうか。六義園のある場所は掘れば池とは言わないまでも水が溜まる場所であったとも考えられます。
②六義園の周りに江戸時代植木屋が多かった理由に、水が豊富であったことが理由にあげられています。巣鴨、駒込での遺跡発掘調査でも植木屋の敷地から井戸が多く出てきています。また、六義園でも千川上水の水が十分に入手できず井戸を掘った、との話は浅いところに水脈があったことをうかがわせます。私が子供の頃都内では手動のポンプの井戸などほとんど見なくなったころを過ぎても、東洋文庫の前にあった染物屋(あるいは洗い張り屋だったか)に井戸がありました。
 これで私の知的探検もひと段落です。お付き合いありがとうございました。新しいことがわかりましたらぜひ記事に掲載願います。

投稿: 北条光年 | 2014年6月24日 (火) 08時14分

北条さま
長旅、おつかれさまでしたw
記事本文にも、「ぜひコメント部分も参照を」と追記させていただきました。
拙記事よりはるかに内容の濃いご示唆をいただいたと思っております。
ほんとうにどうもありがとうございました。
上の「湧水説」も大変興味深いです。
「心泉」といえば、「心泉亭」という茶店が六義園にありますものね。あの名の由来はこれだったのですね。
たしかにここは水が豊富なエリアだったのかも知れませんね。
今後も気を付けてアンテナを張っておこうと思います。私も追加情報を掴んだら、継続してアップしていきます!

投稿: lotus62 | 2014年6月24日 (火) 11時30分

lotus62 様
このコメント欄でのやりとりに則って考えてみた結果、
拙ブログにて紹介しました六義園からの余水の流路を見直すとともに訂正することに致しました。
訂正記事は近日中にUPしたいのですが、その際にこちら様のこのコメント欄をご案内させていただいても
よろしいものでしょうか?
お差し支えなければ拙ブログにてご案内させていただきたいと存じます。
ぜひよろしくお願い致します。

投稿: わんじん | 2014年7月 9日 (水) 11時56分

わんじんさま
ご連絡ありがとうございます。
喜んでお受けさせていただきます。
どうぞ北条光年さまのお考えとご成果をぞんぶんにご紹介いただければと思います!

投稿: lotus62 | 2014年7月 9日 (水) 12時08分

lotus62 様
ありがとうございます。
来週訂正記事をUPしますので、その際にご紹介させていただきます。

投稿: わんじん | 2014年7月 9日 (水) 13時40分

Lotus様
わらんじ様の記事を私も楽しみに待ってます。

投稿: 北条光年 | 2014年7月12日 (土) 09時03分

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