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暗渠ハンター 板橋湧水跡めぐり 2

前回に引き続いて、
「いたばしの河川」(板橋区教育委員会)の「無名の川」で取り上げている川や湧水の断片を訪れていきましょう。今回は「上板橋」エリアです。

地図中の赤いラインが今回の「無名の川」。

より大きな地図で 練馬暗渠巡りの旅 を表示

2 上板橋あたり

2‐① 子育て地蔵脇

これです。
Img_0188

上板橋駅から南下すること5分ほど。
商店街の一本裏の道に唐突に現れます。
それこそ、どこからきてどこに行くのかわからないような。
これについて「いたばしの河川」ではこう書いています。
『子育地蔵付近を源として五本欅の西側を通り、田柄川に流れ込むどぶ川』。
ちなみに五本欅というのは川越街道沿いにある、文字通り欅の大木が5本残っている場所の通称です。
このあたりの地形はわりとまっさらで谷頭らしいものも見当たらないんですが…。
詳しい状況を地形図で確認してみましょう。
東京地形地図さん、いつもありがとうございます。

Photo

オレンジの円がこの子育地蔵横の水路があるエリア。矢印がこの水路です。
確かに、うっすら凹んでいますね。
なるほどー。
まあ湧水がなかったとしても、このあたりの水をさわーっと集めていたに違いありません。
再び「いたばしの河川」をみると
『古老の記憶でもこの川は早くから下水として用いられていたようで、この川の水を何かに用いたという話は聞くことができなかった』
と記述されています。
もっぱら排水路として機能していたようですね。

では反対側(出口)のビジュアルもどうぞ。
Img_0190

2-② 茂呂山下

こちらは田柄川でなく石神井川の支流ですね。
いや支流というよりおそらく石神井川の水を一旦揚げて周囲に回した
「揚げ堀」的な用水路だと思います。
この流れは石神井川の右岸、
小茂根5丁目の大山高校あたりを石神井川と共に取り囲むようなルートを取っています。
この流れのさらに南に聳えるのが茂呂山。
茂呂山遺跡として板橋では大変有名な歴史物件。…だと思います。

下流から辿って行きます。台橋のあたりが石神井川との合流ポイント。
しかしあまり流れの痕跡が残っていない道が続きます。
Img_0005

でも大丈夫。ここに「東京時層地図」にはしっかりと水路が描かれています。
Img_0007

やっと出てきました、車止め。形而上暗渠からの脱出です。
Img_0010
左横にある、いかにも「水路へと降りていくような階段」が
暗渠の現実感をさらに高めてくれますね。

車止めをするりと抜けて中に入っていきますと…。
ナガミヒナゲシの花。ここを訪れたのは風薫る5月の半ばのことでした。
Img_0015

なーんて花など愛でているうちにこの暗渠道はすぐ終わってしまいます。
ああ、もう出口ですよ。
Img_0016_2

このあとはまた形而上の暗渠となって湿気味橋あたりの「取水点」まで。
それにしても「湿気味(しっけみ)」。味わい深い名前だなあ。
湿気味橋の下にはおおきな合流口が空いていました。
Img_0022

では、次回は志村地区まで飛んでいきます。

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2056 ・・・石神井川水系」カテゴリの記事

コメント

茂呂山下の石神井川の支流、1枚目の写真に写っているシャッターの向こうの駐車場のあたりにかつては釣堀があったんです。
その道を直進して、信号の手前あたりに変わった名前のアパートがありました。
「バッケ荘」というアパートです。
子供心にへんな名前、と思っていたのですが、貴ブログの記事を見てバッケの意味が判明した次第です。
ちなみに私、1960年代後半から1972年頃までこのあたりに住んでおりまして、その後も80年代には勤務地も至近だったのです。
(なので田柄川に水が流れていた記憶もしっかり残っています)

投稿: totomn | 2013年6月26日 (水) 12時53分

totomnさま、ありがとうございます!
なんと、釣堀が!!愛用の「東京時層地図」では確認できなかったので意外でした。 各地で釣堀が「ブーム」だった昭和40年代ころでしょうか…?
それにしても「バッケ荘」の存在は面白いですね。お子さんの頃でなくても「バッケ」という言葉に馴染みのない方がご覧になったら十分に「???」という名前ですよねw まだあるんでしょうか…。ちょっと見てみたくなりました。
田柄川開渠の頃のご記憶があるとは羨ましい限りです。どうぞ思い出されたことがあったらぜひご教示くださいませ!

投稿: lotus62 | 2013年6月26日 (水) 13時22分

ああ!小茂根5-14に「バッケハイツ」発見しました! by goo地図
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E139.46.40.479N35.40.51.371&ZM=12&st=6

投稿: lotus62 | 2013年6月26日 (水) 15時15分

小茂根のつり掘は2回ほど連れて行ってもらった記憶があります。
小学生1、2年生のころですから昭和40年代中盤ですね。
ちなみに以前にも書き込んだのですが練馬の桜台の暗渠、川場湯という銭湯のところを流れている水路も現在の農協の裏手あたりに桜台プールと桜台フィッシングセンターってのがありました。
なんだかんだで水路の周辺にはそういう施設ができやすいのかも知れませんね。

投稿: totomn | 2013年6月26日 (水) 23時46分

あっ、書いていて思い出しました。
私は田柄川のたもとの小学校に通っていたことがありました。
田柄川と石神井川の合流点のところ・・・ってこれじゃ特定できてしまいますね www
そのころ田柄川沿いの道路で交通事故がありましてね、対向車と接触したバイクが跳ね飛ばされてバイクの運転手が田柄川に真っ逆さまに。
おぼれるような深さではなかったのですが、そのため逆に打撲と骨折と。
田柄川、路面から水面まで3、4mはありましたからねぇ。

投稿: totomn | 2013年6月26日 (水) 23時50分

田柄川と石神井川の合流のところから川沿いを上がっていくと城北中央公園の西端、5本ケヤキから氷川台に向かう通りにかかる橋が「神明橋(しんめいばし)」と言いまして、バス停がありました。
そのバスは常盤台駅南口から練馬区役所前までを結ぶバスで、川越街道から5本ケヤキを左折、神明橋を渡り少年鑑別所前、氷川台(当時は氷川神社下)から石神井川を渡って(正久保橋)、農協の手前を右折して桜台を抜け、というコースでした。
このバス、今は廃止されているようですが、貴ブログに掲載の練馬区は氷川台、桜台あたりの石神井川系の水路の大半がそのバス1本でフォローできていたんですよ。

投稿: | 2013年6月26日 (水) 23時57分

おっと、署名忘れてました。
バスの昔話もtotomnでした。
連続書込み、失礼しました。

投稿: totomn | 2013年6月26日 (水) 23時58分

totomnさま、連続書き込み大歓迎ですーw

川場湯近辺のこと、ここで教えていただいた件ですね。
http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-373d.html
やはり排水の関係でしょうか釣堀は暗渠と大きな相関があるようです。そればかりでなくS40年代に「釣堀というレジャーが台頭していた」こと「それが現在ではほぼ壊滅的になっていること」にもとても興味があります。
当時あちこちの釣堀の何が人々を惹きつけて、何故見放されてしまったのか…。
別軸で追いかけてみたいと思っています。

あの小学校ということは、安養院の境内なんかも行かれていたのでしょうねw。それにしても田柄川、ずいぶんと深いところにあったのですね。もう当時は3面コンクリートだったのでしょうか…。

それと、ご紹介いただいたバス路線、もはや観光バスレベル!楽しくて仕方ありませんねー。
マジメな話この路線が今でもあったなら、川や支流の相関関係を面で捉えることができるとてもいいルートでしたね。

投稿: lotus62 | 2013年6月27日 (木) 12時36分

安養院の名前が出てくるとは思いませんでした www
1970~71年の頃、地域の子ども会のイベントで安養院の境内を借りて肝だめし大会をやりました。
墓地への立ち入りは禁止でしたが境内とその周辺はOKということで。
今では絶対ダメですよね。

田柄川、'70年当時はコンクリートでした。
私はその周辺から数年ごとに石神井川を遡上するように転居していたので、桜台も早宮も平和台も実体験を記憶しています。
そんなわけで懐かしい思いで拝読させていただいております。

湿気味橋、練馬区のサイトにかつての写真が掲載されていますね。
残念ながら水路はうつっておりませんが。
http://www.city.nerima.tokyo.jp/shiryo/shinq/p021.html

そうそう、この湿気味橋から下流、現在の城北中央公園のカーブのところに60年代の終わりまで牧場があったんです。
牛がいたんですよ。
牧場と言っても牛舎だけみたいなものでしたが。
この牧場を覚えている人はかなりの高齢者かも www

投稿: totomn | 2013年6月28日 (金) 12時53分

あれ?
牧場、馬だったかな?
城北中央公園はかつては「立教グラウンド」と呼ばれておりまして、立教大学の関連施設だったらしいんです。
で、記憶の底に乗馬をしている光景が残ってるんですよねぇ・・・
さすがに60年代後半のお話なので、はっきり覚えていないのですが。

大学関連といえば、石神井川を上がっていって、練馬区早宮の先にある総合運動場ってのも
かつては中央大学のグラウンドで、近所では「中大グラウンド」って呼んでましたね。
おっと、ぜんぜん水路の話ではなくなってしまいました。

投稿: totomn | 2013年6月28日 (金) 12時58分

やはり安養院は身近な存在でらしたようですねw
田柄川はすでにコンクリ河川でしたか…。そりゃバイクから転落したら重症になりますよね。
湿気味橋のあたりも信じられないくらいのどかな風景ですね。昭和31年でこれですかー。その後の20年で東京が激変したということが改めてわかるいい写真ですね。
それと、いくつか大学のグラウンドがあったとのこと…。
「都心の大学が、場所が足りなくなって郊外にも拡大していく」という前提に立つと、時代時代の「郊外感」が漂って興味深いです。最近は都心の地価下落とかあるから一概には言えませんが。
それと、昔は物流が発達していなかったので「消費地に近いところで乳牛を飼う」必要があり都心でも牧場が多かったと聞いたことがあるので、馬までしっかりいた牧場となると結構珍しいのかも知れませんね。
水路のお話でなくても、水路のそばのお話はとても面白いです!

投稿: lotus62 | 2013年6月28日 (金) 18時39分

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