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2013年4月

暗渠ハンター およぎ場、遊泉園の光と影。

板橋区中板橋。
地名に先駆けてできたのが東武東上線・中板橋駅であり、
その駅名を関してこの地名ができました。
駅の開業は昭和8(1933)年7月

さらにこの駅は、もともとはある施設へのアクセスのためにできた駅。
それが遊泉園、というプールですね。
今回の参考文献「いたばしの地名」(板橋区教育委員会)では、
プールではなく「およぎ場」と記載されているのが興味深いです。
当時はそう呼んだのかしらん。
それはともかく、およぎ場の大きさは縦50m、横25mという大きなものだったようです。
板橋区のHPには貴重な当時の写真が載っていました。
賑わってますねー!

地図ではここ。

Photo

※写真は「東京時層地図」の昭和戦前期(昭和3-11年)から転記。

ちなみに「東京時層地図」の明治の終わり(明治39-42年)地図ではまだ遊泉園は記載されていません。

Photo_2

この遊泉園のはじまりについては、
先ほどの資料「いたばしの地名」wikiの記述を比べてみると、
若干の違いがあって興味深いです。
両者から要旨を引用させていただきますと、以下のようになります。

「いたばしの地名」説>説→
・昭和4、5年頃、中板橋30番あたりに川の湾曲部に遊水地があった。
・これを、夏だけ地元の人(地主さん?)が臨時のおよぎ場として提供した。
・大人気だったので、町の有志連が出資金を持ち寄って「遊泉園」としてオープンさせた。
・利用者は下板橋か上板橋から炎天下をとぼとぼと歩いてきた。
・その後地元有志が東武と掛け合って、夏だけの臨時駅をオープンしてもらった。

wiki>説→
・大正15年、東武鉄道が中板橋仮停留所を設置、夏期のみ営業を行った。
・翌年以降も板橋遊泉園入場客の便宜を図るため、1932年まで毎年夏期に仮停留所が開設される。
・1927年(昭和2年)板橋遊泉園が開設される。

wikiの書き方だと、すでに大正15年には遊泉園の前身があったことになり、
さらに(おそらく法人として)遊泉園が「遊泉園」になったのは昭和2年、としていますね。
※ちなみに「いたばしの河川」(板橋区教育委員会)でも「遊泉園の開業は昭和2年」という記述が見られます。

一方中板橋駅の開設については、どちらも昭和8(1933)年としています。

この両者の歴史記述の違いは、
遊泉園利用者の行動の違いに直結するのでそれを想像するとこれまた興味深いです。

<「いたばしの地名」説に則ると>→
・中板橋駅ができるまでの4、5シーズンくらいは、遊泉園利用者は炎天下に上板橋もしくは下板橋から汗だくで歩いてやってきた。
(現在の両隣駅、ときわ台駅は昭和10年の開業ですが、大山駅は昭和6年の夏の終わりに開業。すなわち中板橋駅開業までの昭和7年の夏は、遊泉園利用者はきっと大山駅からやや汗だくで歩いてきたのでしょうね

wiki説に則ると>→
・遊泉園開業当初から、夏季だけでもそば(のちの中板橋駅)に電車が停まった。
(ので、何キロも歩いて汗だくになることはなかったでしょうね)

まあ後者のほうがスマートでしょうが、
もしかしたら前者のほうが
「遊泉園で涼しいひとときを!」という提供価値が
相対的に高まったかも知れませんねー。

両者の比較はここまで。

次は中板橋という駅名について。
いたばしの地名」には以下のようなことが書かれています。
・そして昭和8(1933)年の中板橋駅開設にあたって、
(たぶん東武が、誘致した地元有志に対して)駅名の即答を求め、
「下板橋と上板橋の中間なので中板橋にします」となった。

しかしこの「即答を求めた」エピソードには謎が残ります。
遊泉園という集客装置は東武にとっても重要だったはず。
なのに、なぜその名を冠しなかったのでしょうか。
地元有志も、地元資本の対立関係などがあって単純に
「遊泉園にだけデカイ顔させるかいな」という思いもあったのかも知れませんね。
これは想像ですが。

それにしても、もしこの駅が「遊泉園」という駅名だったら、
今も「板橋区遊泉園5番」とか「遊泉園30番2号」とかいう地名が残されていたかもしれないし、
「遊泉園駅前ふれあい商店街」や「メゾンド遊泉園」「遊泉園ハイツ」
なんていう集合住宅が残っていたかも知れませんね。
それはそれでちょっと楽しかったかも。

今回最後の話題は、遊泉園のさいごについて。
そんな遊泉園でしたが、昭和12年頃(正確な年は不明)には閉鎖されてしまいます。
もしかしたら、中板橋駅名を決める昭和8年くらいには
すでに遊泉園の勢いは下降していたという可能性もありますね。
石神井川の水を導いた遊泉園は、
石神井川の水質にその運命を握られていたともいえます。
谷戸ラブさんのブログでは
「近辺に移転した数軒の牧場の排水によって水質が低下した」と記されています。

さらに。
ちなみにとしまえんのプールは昭和4(1929)年に開業。
二子玉川園のプールは大正14(1925)年開業。
プール設置の時期は不明ですが向ヶ丘遊園は昭和2(1927)年開業。
昭和初期は、大資本によるレジャー施設開設ラッシュ時。
この大競争に巻き込まれ、敗れ去っていったのが遊泉園だったのかも知れません。

さてその遊泉園の痕跡があるかとかの地を訪れてみたのですが…。

という現地でのお話は、次回をお楽しみに!

今回記事の参考年表です。

Photo_2

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暗渠ハンター オチのない内川支流の話。

「大田区の文化財 第25集『地図で見る大田区』(2)」
という資料を眺めていたら、こんなものを見つけました。
そう、真ん中に流れる川(オレンジ色)は、内川。

Photo

明治19年測量、というこの地図には、
西から内川に合流する支流が二本くっきりと描かれています!
赤い丸のところ。

以前内川をたどっていて偶然見つけたのは
もうちょっと上(北)のほうに位置する暗渠でしたが、
このあたりに暗渠なんてあったっけな…。

でもこんなに堂々と書かれているんだから、痕跡がないならないでいいや、行ってみよう!
と鼻息も荒く出かけていきました。
大正9年の測量時にすでに消えているんですけどね。

まあ地形図でもね、こんなくっきり谷があるし、
Photo_2

なにか面白いことが待っているかもしれないし。
(東京地形地図さん毎度引用させていただいてます、ありがとうございます。)

一応東京都の下水道台帳をみるとこの川筋には合流式の下水道管が通っているので、まあ暗渠と呼んで差し支えはないかと思うんです。

以下、便宜上それぞれの住所から、南側を西馬込2丁目支流、
北側を西馬込1丁目支流と仮に呼ぶことにして話を進めてまいります。

■ 西馬込2丁目支流

2丁目支流は、南馬込5-27あたりで内川に合流します。
ちょうど都営地下鉄西馬込から延びてくる商店街の谷のところ。
一見なんの変哲もない商店街。
Img_0042

このあともなんの変哲もありません。
ただ、両脇を見るとぐぐっと下がった谷地形であることは間違いない。
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国道1号線・第二京浜とまじわるところには、
文化堂というスーパーがあるのですが、
何かの資料で「ここに昔湧水があった」と書かれていましたので、
その湧水はこの西馬込2丁目支流にあわさって
内川へと流れ込んでいたのだと思います。

第二京浜を越えても川らしい跡が浮き上がってきません。
Img_0048_2

今日はテンションが低いまま終わってしまうかも知れません。
いまから覚悟しておいてください。
大阪の人と飲んでるときにオチのない話をして怒られたことがありませんか?
そんな感じ。

道端に公園。
お。
なんか川っぽいもの発見!
Img_0050

でもこれ、絶対ダミーです。
でもこの公園の端っこが急にがくんと低くなっていて、
おそらく谷頭部はこのへんなのだと思います。
Img_0052

その谷頭の上のほう、西馬込2-9の界隈にはちょっとした路地が。
Img_0055

特定はできませんが、配水路などがあったような風情です。

よくわからないまま、谷はほんとにここで終わります。
新幹線(横須賀線)の切り通しのところ。
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ちょと線路を覗いてみましょう。
Img_0061
うわーほんと深いなー。
と、ほとんど痕跡が見つからないまま線路沿いに北に進んで、
次の西馬込1丁目支流の谷頭部に移ってみましょう。

■ 西馬込1丁目支流

この切り通しの尾根を北に進むと、谷が現れてきます。
Img_0063

谷底には階段で下っていきますよ。
谷頭部から下流を見ると、こう。
Img_0064

いいですね、いい谷です。

あ、川と無関係だけどなんだかかわいらしいガードレールがありました。
Img_0067

地形だけを頼りに想像すると、
この西馬込1-26のブロックの中を斜めに進むようです。
Img_0070
かなり怪しい場所ですがやはり決め手がありません。

次の1-27のブロックには公園。
ここが谷底です。
Img_0072

この時は冬だったので枯れていますが、
公園内には水のモニュメント的なもの。
Img_0076

まあ冒頭の明治19年の水路はここを通っていたと考えて間違いないでしょう。

その先も変哲のない谷底道を進んでいきます。
Img_0079

うわ、谷に向かう斜面は農耕地!大田区らしくない場所ですねー。

まああとはやはり退屈な寝物語のように進んで、
内川の合流点を迎えることになります。

どうですか今回のこのオチのない感じ…。

今回の地図はこれです。

より大きな地図で 内川と不入斗新井宿村用水など を表示

■おまけ
ここで終わるものほんとにアレなので、
当日に見つけた蓋暗渠を一つご紹介します。
以前、「池尻堀 大仏支流」として
西大井5丁目あたりの谷のことを書きました。
その時は、
大仏支流が新幹線(横須賀線)の高架を越えた所の蓋暗渠について触れましたが、
実は高架を越える前のところにも
見事な蓋暗渠があることにこの日気がつきました。

短いけど、立派なやつです。
見てくださいこれ。
Img_0186

奥の家のわきから始まって、
こんな風に足元を抜けていきます。
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蓋の素材が変わりまして、高架の土台と家の間に消えていきます。
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この家の裏側を通っています。

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「止まれ」の標識のところはもう大仏支流。

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暗渠ハンター 門前仲町近辺の川跡③ 護岸見るなら門仲おいで

さて、無事に目標であった牡丹と古石場を見られて満足、だったのですが、
せっかく門前仲町に来たことだし、ほかの川跡も見て帰るかなと。
門前仲町には、
高速下を流れる油堀川、富岡八幡を囲む八幡堀のほか、
蛤町堀
江川
黒江川
大島川西支川
中ノ堀
仙台堀川支川
などたくさんの川跡がありますからね。

しかしこれらは比較的痕跡がのこされておらず、
というかほとんど残ってなくて、
根こそぎ都市化の波にさらわれた感じです。
つまり記事になりづらいわけです…。
それでもいくつか残っている川の断片を、門前仲町近辺の〆として、
ハイライトでご紹介していきます。

より大きな地図で 油堀川と八幡堀 を表示

まずは首都高速9号深川線の下の油堀川跡。
まあ高速高架下となれば必然的に橋裏を見上げることになるわけですね、
私としては。
Img_0147

さすが首都高ともなると、前回で見たような橋裏と一味もふた味も違いますね。
複雑な構造幾重にも重なっていて、ちょと白色彗星帝国を思い出します。

油堀川の埋立はS49(1974)年。
30年の時を経ても、この下にまだ一部の護岸がしっかり残っていました。
門前仲町からずいぶん離れ、隅田川との合流も近い福住・佐賀のあたり。
Img_0146

ずいぶん前、クルマに乗っていたころは
この首都高深川線も何回か走ったことがあります。湾岸から箱崎に向かう時にここは通っていたはず。福住の標識に見覚えがあるし。
でもその首都高に乗っていたときと今とでは、脳内地図が全く違うことに少々驚きですね…。
あの道がここを通っていたとは!
そしてあの道の下がこんなことになっていたとは…!

さてこの首都高下の油堀川に、
北の仙台堀川からまっすぐに合流してくる堀が一本あるはず…。
それが仙台堀川支です。
あったありました。あれ。
Img_0148

奥に延びるのが油堀川、これに仙台堀川支川が左からせーつーぞーくー。
近づいてみます。
Img_0150

支川の上は公園になっていますね。
へえーまあありがちですよねえ、
…って公園のまわりはまんま護岸ではないですか!
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両岸にしっかりと護岸が残っています。
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護岸マニアの方には絶対おすすめのスポットですね。
間違いないです。

どうやらこの公園の名は亀堀公園。
知りませんでしたが、この支川の名前が「亀堀」なのでしょう。
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お、ちょうどこのあたりには支川のさらに支川が延びていたようです。
3
(「東京時層地図」~高度成長期前夜 より転記)

その支川の支川はたぶんこの奥に。
Img_0160

亀堀はその先、「きよすみはし」で仙台堀川に合流します。
写真は合流地点から見た仙台堀川。
Img_0158

まあはっきり言ってこの近辺には護岸くらいしか痕跡ないっす…。

では、最後にこの仙台堀川支川(亀堀?)から見た、
油堀川に架かる首都高速9号深川線の橋裏別ショットでお別れしましょう。
Img_0165 
うーん、美しいカーブの先に消えていく橋裏…。
護岸と橋裏の回でした。

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暗渠ハンター 門前仲町近辺の川跡② 古石場川で川面さんぽ

では牡丹やら古石場やらの現地をご紹介してまいります。

のっけから横道にそれますが(結果的にはこれが以降の伏線にもなっちゃうんですが)。
現地には東京メトロ木場駅からアプローチ。
その途中、大横川東支川の川跡(H4・1992年埋立)に架かる、
首都高速9号深川線高架の橋裏が見えたので思わず萌写。
Img_0004

はい、本筋に戻ります。
今回のエリアはこちら。

より大きな地図で 油堀川と八幡堀 を表示

エリアの中心となるのが「古石場川」です。
もちろん人工の堀。
この川の北が牡丹、南が古石場という住所になっています。
古石場川は現在埋め立てられ、
大部分が親水公園となり地元の憩いの場に。

平久(へいきゅう)川に接続する古石場川の東の端っこは、こんな様子です。
琴平橋という橋の上から撮影しました。

奥の土手の向こう・さらに1ブロック先に平久川が開渠で流れています。
Img_0018

この、川の右側はカミソリ堤防みたいに急峻ですが、
その上に手すりがあるように堤防の上に歩道があります。
ここを奥に入っていくと、
親水公園として整備される前の、
おそらくかつての古石場川の堤防と思しきものが
粗っぽい雰囲気で残っています。
Img_0025

この左下のコンクリ構造物。
このあたりから南にくいっと入っていくちいさな支川(支堀?)があったのですが、
その跡のものであろう堤防も、
隣接のマンション敷地沿いに残されていました。
Img_0026

そして対岸には、堤防をケーキみたいにさくっと切り分けて作った
個人宅の入り口。
Img_0024
なんだか堤防がカステラとかスポンジとか
そういう美味そうなものに見えてきます。
私は腹がへっているのかもしれません。

まずはさきほどのマンション脇に入って行った小さな支川を追っておきましょう。
冒頭の地図ではオレンジ色の、
十手の短いほうみたいにくいっと曲がってるやつです。
マンション奥から南に続くのですが、
そこのブロックはすでに暗渠のあの字もない住宅地となっています。
Img_0021

南下した支川はほどなく西に直角に曲がり、
少しだけ古石場川と並行して伸びて終点をむかえます。
こんな感じで。
1

(東京時層地図「明治のおわり」より転記)

下の写真では、奥から手前に続く道がこの支川です。
時層地図上の青い丸は、ちょうど写真中央右の街路樹のところになりますね。
Img_0027

ここまでは何とも痕跡のないのっぺらぼう暗渠なのですが、
ここから続く反対側では、不自然に広い道が現れます。
それ、回れ、右。
Img_0028

この支川は、程なく古石場図書館の手前で終了。
ちなみにこの古石場図書館近辺にはかつて金比羅神社があったとのこと。
金比羅さんといえば海運の守り神ですよね。それもそのはず、この近辺はかつて漁師町として栄えたところでもありました。

では古石場川の本流に戻りましょう。
琴平橋から、平久川の反対側(西のほう)に向かって撮りました。この川においては上流とか下流とかいう概念は消えますね。
ちなみにこの「琴平」は近くにあった「金比羅」とリンクしてつけられた名前です。

Img_0019

前回の導入編みたいなところでも書きましたが、このあたりは江戸時代に
波除けの土手があったところ。
その土手は越中島から南砂まで続く大規模なものであったそうです。
明治に入ってからこの土手はさらに現在の越中島川まで南下させるのですが、
その時に掘られたのがこの古石場川。
そしてその川も、昭和63(1988)年に埋め立てられました。

しかし防災機能という点では今もその使命をしっかり受け継いでいて、
北側の大横川が非常高水位となるとこの古石場川は貯水池代わりになり、
貯まった水は東側の平久川に汲みだす、
という「大横・古石場・平久」3つの川による水害対策リレーションが整備されています。
※「おはなし江東区 川と橋の話」H4 江東区教育委員会 より

古石場川を進んでいくと、ちょっとだけ変な形のスペースがあります。
なんか両岸が平行でなくてちょっと出っ張ったところ。
Img_0034

ここはかつて、三角形の川の「溜まり」のような場所でした。
2

(東京時層地図「明治のおわり」より転記)

この公園、さすが古石場だけあって石推しです。

Img_0037

また、親水公園には以前の橋が残され、公園を跨いで架けられています。
これこそがこの公園の見どころでしょう。

これは小津橋。

Img_0038

そう、あの小津安二郎さんの小津です。
おうちがこのあたりにあったばjかりでなく、近辺に映画のロケ地もたくさんありますね。もしかしたらこのあたりは小津ファンの聖地なのかもしれません。
古石場文化センターでも小津映画に絡めたオリジナルの周辺マップが置いてありましたし。
まあそれはさておき、小津ファンも泣いて喜ぶであろう、小津橋の橋裏写真がこちら。
Img_0041 41
いい色です。青ともグレーともいえない、特定不可能な微妙な色。
こういう色を出そうと思って作られていない(であろう)ところがなんともたまりません。
ビバ無作為作品。

さて公園の周囲は、よく見るとしっかり護岸です。
Img_0042

ああなんかうれしい!
なんだか水面に浮かんで川を巡っているような気分で悦に入ってるのは
この暖かい陽気につられてこの公園を散歩しているたくさんの人の中でも
私ぐらいかも知れませんが。

すこし進むと、船着場のようなものがみてきました。
Img_0043

そういえば以前会社に、
誰からも「チャック!」とか「チャックさん」と呼ばれるおじさん(純日本人顔)がいました。
なんでそんな欧米風の愛称で呼ばれてるんですかと先輩に聞いたら、
「船着さんって名前なんだよ。だから着=チャックだろ」と教えてくれました。
チャックさん今も元気かなあ…。

マジで船着場、または荷捌所のようなところのようです。
Img_0044

ある時期の地図を見ると、このあたりから南の越中島川に
垂直に延びる短い堀が掘られていた時期がありました。

ちなみにこちらが越中島川。
バリバリ現役の運河ですね。
Img_0057

古石場川に戻って、雀橋です。
Img_0060

はい、そのスズメちゃんの橋裏ですよー!
あ、こういう言い方はよくないな、やめよう。
橋裏のことを書くとついつい感情が先走ってしまいます。
改めまして、雀橋の橋裏です。

Img_0061_2
これまた澄んだ静かな湖のようなブルー。

構造に整然と並んで見られる幾何学模様が、
なんだかロシア構成主義の絵画を思わせます。
…なんか今日は橋裏特集みたいになってきちゃったな…。

そして次はちどり幼稚園と対岸の公園を結ぶ橋。
公式名は不明。
Img_0062

橋裏はちょっと意外な構造でした。交互ナナメトラス。
Img_0063

色も鮮やかです。適度に。

この橋をくぐると、90度カーブ。
Img_0066

そしてその先には…。牡丹園です!いよいよ牡丹!
牡丹という地名の由来と共になんと359株の牡丹植えてるよと書かれています。へえー。
Img_0067

ま、
Img_0069
当然まだ咲いてませんけどね。

最後に架けられているのが、古石場橋。
なんか本命キタ!的な。
Img_0070

はい、橋裏はこちら。
Img_0071

コンクリートを筋交いに鉄筋が補強しているふうです。
横から見るともっさりしたグレーなのに、裏側は意表を突くさわやかペイルブルー。
去年岩手の岩泉で見てきた地底湖を思い出しました。
そしてこの番屋みたいなところで、向こう側の大横川と接続します。
Img_0074

さて以下はおまけ。
牡丹という地名にみんなが愛着を持ってそれを強調したがるからか、
あるいはその地名に惹かれた私が意識し過ぎているのか、
どちらかわかりませんがなんだか牡丹を歩いてるときは
やたら「牡丹○○○」の町名冠が目につきました。
Img_0083

Img_0084

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Img_0089

Img_0092

ふつうの町ってこんなに町名冠の店多かったっけ…。

※記事では部分的に「江東区の川(堀)・道・乗り物の変遷と人々」(H22 江東区教育委員会)も参考にさせていただきました。

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