暗渠ハンター 蛇崩川・ある支流のうつろいといくつかの弁財天
いくつか、蛇崩川の中流・下馬近辺の「湧水地点」を調べて
わかったことがあるので今日はそのお話をしようと思います。
先日「とりちゅう」(都立中央図書館)で
見つけた資料「下馬史」(高橋信次郎著 S62年)の記述を元に、
周辺を確認したり、考え直してみたり、というだけなんですが…
自分の頭の整理のためにもちょっと書いとこうかと。
この資料の38ページからの数ページに、
下馬にあった4つの「弁財天」についての記述があります。
それを一つずつ見ていきましょう。
弁財天といえば、水(※)。
(※弁財天は元々ヒンズー教のサラスヴァティー(水や豊穣の神)に由来しています)
湧水地や池などによく弁天様が祀られていることはみなさまご存知の通り。
ということは、
これら下馬の弁天様の近くにも水源や水に関わる何かがあったに違いない!
という前提で以下話を進めてまいります。
より大きな地図で 蛇崩川を遡る を表示
1「鶴ヶ窪弁財天」
これは、以前このブログでも「鶴ヶ久保支流」として取り上げたことのある、
公園内の池のところですね。今も弁財天があります。
もともとは駒繋神社(蛇崩川の、もうすこし下流にある大きな神社)の末社で、
広い境内があったそうです。
池はいまよりずっと広くて、気に囲まれ鬱蒼としていた、とのこと。
いまの鶴ヶ久保公園なんてすっぽり入っちゃうくらいの大きさだった、
のかもしれませんね…。
さて次からが、この資料ではじめて私が知った弁財天です。
2「大石橋弁財天」
これは、西澄寺内にあるそうです。
西澄寺といえば、前述の鶴ヶ久保支流の記事のとき
オマケみたいにして
「この支流の蛇崩川との合流点に、対岸からも水路があったかも…」
的な無責任発言をしているのですが、
その最上流としてご紹介したのがこの西澄寺でした。
おおー、なんか水源まぐれ当たり!?やっぱ対岸にも水路あったわけー!?
なんて一瞬興奮しましたが、どうもよういうワケではないようですw
もともとここにあったんではなくって、
下馬1-23にあったのをここに祀りなおしたようです。
なんだなんだ、全然違う場所でした(涙)。
駒繋神社のちょっと下流のはす向かい、
東急バス下馬営業所(バスターミナル)の西側のブロックだそうです。
もう蛇崩川本流のすぐそば。
まあ弁天様がいらしても全く不思議でなないロケーションですよね。
ここは昔、蛇崩川の水を「平川」(場所確認できず)や
「砂利場田んぼ」(場所確認できず)にひくための堰があったとしています。
3「清水丸弁財天」
さてこちらは、下馬6-36の個人宅内だそうです。
お。ここは。
やはり以前「下馬西支流のさらに支流」で記事にしたところ。
どうもその途中、8枚目の写真の路地暗渠の横にあった模様。
そしてこの下流部を「笹丸田んぼ」といっていたようです。
笹丸という地名は
大田区の洗足池の南西・中原街道を挟んだあたりにもありますが、
これとは別ですね。
4「姥ヶ谷弁財天」
そして今回最も私が注目したのはこの弁天様です。
現在位置は下馬1-47-17のやはり個人宅内にあり、ここは
以前記事にした「世田谷公園支流」の途中に位置します。
この記事の最後の写真近辺が「下馬1-47-17」。
(画像再掲)
明治・大正時代の地図によると、
この世田谷公園支流一帯は「姥ヶ谷」と呼ばれていました。
この記事を書いた時は、
「さしたる水源情報も持っていないし、
谷頭がかつての軍事施設につながってるので、
これはこの施設の排水を流していたのではないか」
と仮説ながら結論付けていました。
さてこの「下馬史」にある「姥ヶ谷弁財天」の項目では
以下のように書かれています。
…姥ヶ谷田んぼの水源として小さな池があった。そしてその池のほとりに
大きな犬黄楊(いぬつげ)の木と共に小さな祠があった。
池にはドジョウが多く住み、このドジョウを獲った者は必ず熱が出たとのこと。
練兵場(lotus注:駒澤練兵場のこと)ができてから湧水が少なくなり、
黄楊もたちまち枯れて弁天様もいつの間にか消えた。
昭和の初めにその話を聞いた土地の所有者が
自身の屋敷内に建立したのが現在の弁天様。…
ということです。
現在の祠の位置が湧水地点ではないようですが、
「姥ヶ谷」の谷にあったことはその名から言って間違いなさそうです。
ちなみに現在の祠は、「姥ヶ谷」谷頭からやや谷を下ったあたりにあります。
では、この「世田谷公園支流」についてもう一度整理してみましょう。
・「姥ヶ谷」の谷を流れるのがこの支流。
・もともとこの「姥ヶ谷」は、谷の中にある湧水による池が作ったものののようです。
・しかし明治期、谷頭のすぐ上での練兵場造成のための整地に伴って湧水が枯れ
池も消滅。
・この湧水ポイントは今は特定できないが、文脈上少なくとも練兵場の中ではない。
「姥ヶ谷」と名に冠されているため、練兵場のさらに北でもない。
「姥ヶ谷の田んぼを潤す」というからには限りなくこの谷の上流にあるはずであり、
まさに練兵場のすぐ南にある現在の谷頭あたりなのではないか?
さらに、練兵場ができてこの湧水が枯れた後・昭和30年代の地図上にも
はっきりと水路が描かれているので、
この川は湧水がなくなったあとも暗渠化されるまで、
「練兵場(および周辺住宅)の排水路」として「変態」し生き残っていたわけです。
もともとは湧水が作った「生きた川」。
それが土地の開発と共に「造られた川・生かされた川」に変わる…。
私は土地開発何でもかんでも反対!という立場は取りません。
基本的には、
「人による土地開発も、とても大きな意味では『自然の流れ』である」
と私は考えています。
とはいえ、やはりこの小さな川の歴史を垣間見ると
なにか心にちいさな引っ掛りを感じるのは確かなのです。
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コメント
こないだ九州の柳川で船下りしたんですよ。
柳川の川は観光名所なので暗渠やドブ川みたいなうらぶれた感じはなくて、すっかり観光気分だったので弁財天があったかどうかも記憶にないんですけど、船頭さんによると川沿いには遊郭がたくさんあったというんですね。どうも川沿いには「崇められる女性」の存在があるなーと、今回の記事でそんなことを思いました。
投稿: 俊六 | 2011年10月27日 (木) 19時45分
俊六さん
柳川もそうだったんですねー。
そういえば「暗渠さんぽ」namaさんが花街について何度か記事で取り上げたりしますし、
http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/8/index.html
私も昔の三業地が今どうなっててそれが川とどう関係があるか、リストなど作って一時試行錯誤してたこともありました。<まだ仮説も出せずw
艶っぽくないところでは、こんな女性も絡んでますね、三軒茶屋のテル子女神さん。
http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-5015.html
投稿: lotus62 | 2011年10月28日 (金) 19時04分