暗渠ハンター 品川用水が品川区あたりで鉄道と交差するとき特集。

品川用水については、結構拙ブログでも触れているし、
ほかに取り上げる方もたくさんいらっしゃるので、
あえてここで詳しく説明することもないと思いますが。
ちょっとだけ概略を触れておくと、以下。

そもそもが人工の水路で、
遠いところまで水を運ばねばならないのでしぜんの川と違って
「高いところ」を通るように設計されました。
品川用水は、玉川上水という長い人工の水路を「幹」として、
途中の三鷹あたりで分水口を設けて世田谷区、目黒区、品川区と
長い距離水を運んでくる水路です。
できたのは江戸時代、1669年。

暗渠化は昭和30年代。まあそれだけ長い期間、
そして長い距離水路をやっていると、
いろんなものと交差するわけですね。道路とか、線路とか。

特に下流の戸越近辺では、東急大井町線や横須賀線なんかの下を行ったり来たりと
数回交差しています。
今回は、それらがどんなふうに交差してるかというのをいくつか見ていきましょう。

より大きな地図で 品川用水・朝日地蔵から を表示

西のほうから行きますと、
武蔵小山を抜けて平塚橋を通ってきた品川用水は、
国道1号線の戸越3丁目交差点を越えると
3方に「展開」をします。

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その一つ、国道1号線としばらく並行して走る水路は、
東急大井町線と中延駅と戸越公園駅の間で交差しています。
戸越6-12あたり。

どんなんなってるかな。
じゃん。
Img_0199

上を線路が走っています。そしてその下に水路跡。
ここでは(というか他でも)ほとんど道路と共に水路が走りますが、
このくぐり地点だけは水路と道路が別ですね。

Img_0200
うん、なんか倉の入口みたいな重厚感です。

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3本のうちの2本目は、戸越公園駅の近くで東急大井町線と交差。
(ちなみに3本めはまっすぐ戸越公園の池に向かい、鉄道とは交差無し。ただしその池から流れ出る「古戸越川」は何度も鉄道と交差しますが、それは後日の「古戸越川」記事でご紹介しましょう)

2本目の水路の交差は、戸越公園駅のすぐ東側です。
なんだか工事中なんだか、時が止まっているんだか…。
Img_0213

ちょっと下から覗いてみました。
Img_0214

あ、ほんとに工事中だった。
残念ながら遺構めいたもの含め痕跡はありませんね。

線路の反対側に行ってみましょう。
Img_0215
ほとんど同じ見てくれです。
あきらめて次行ってみましょう。
この水路はこの先でも鉄道との交差があります。

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こんどはJR横須賀線&新幹線と交差。
豊町4-25あたりですね。

Img_0242
ここでどーんと思いっきりJRの線路にぶつかってます。
反対側はどうなってるかな。まわりこみます。
お。何やら御堂のようなものが。
Img_0245
そしてこの右わきには不自然なスペースが…。
ありますよね?
そう、それがこれ。
なんと、白い新しめの蓋暗渠が続いています。
Img_0244

これではちょっとよく見えないわ、という方のために、
もう一枚。こんどは手前の金網の目の中にカメラのズームを差し込んで撮影しました。
Img_0243

んー、御堂の横にあるだけになんだか神々しいですね。
(光の加減でしょうけど)
冒頭のケースのように、ここも道路とは別の軌跡を描いています。

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次は東急大井町線・下神明駅のそば。
よく考えてみると、中延駅からちゃんとひと駅ごとに交差がある、ってことになります。
ここは非常にあっさりと、大井町線は品川用水を高架で越えていきます。
Img_0166

さて、橋裏ファンのみなさまお待たせしました。
こちらが品川用水に架かる大井町線高架橋の橋裏でございます。
Img_0164

複雑なトラス。
まるで宇宙戦艦ヤマト内部のコスモタイガーを収容するスペースの天井みたいです。(想像ですが)

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さて大井町線との交差はこれでおしまい。
次は新幹線と分岐した横須賀線との交差ですね。
こちらもフツーに踏み切りで交差。

Img_0154
権現台踏切という踏切です。
踏切手前と踏切後の落差は結構あります。
手間では暗渠はこんな形になってます。
Img_0156
ここを「暗渠の滝」と呼んでいる資料を読んだことがありますが、
(…資料名失念…ごめんなさい)
まさに滝のような落差です。
品川用水も開渠時代にはごうごうと音を立ててここを下って行ったのでしょう。

この後は、みたび横須賀線を「東京総合車両センター」もろとも越えて(潜って)目黒川に注ぐことになりますが、それは過去のこちらの記事をご参照ください。

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暗渠ハンター ヘリクツ編 「暗渠」と「川跡」

暗渠とは、正確に言うと
地下に埋設された河川や水路のこと。
(「みんなで作る土木用語辞典」より)
ですが、私や暗渠界のお歴々では
流れに蓋をされた・流れが地下化された川や水路という意味で使うことが多く、また人によっては
地下に流れがある・なしに関わらず単なる川跡(水路跡)
まで指すことが多いと思います。
私も両方で使っていますし。

今回はそんな、普段あまり考えずに使っている「暗渠」「川跡」の
言葉・考え方の整理をしておこうかな、と。

1 広義の暗渠

私は下図全体のようなかんじで、広義で暗渠という言葉を使っています。

1

で、冒頭の定義みたいにげんみつに「暗渠」とは何なんだ!ということになると
図の上半分にしるした「狭義の暗渠」、つまり
本来地表にあった水の流れが下水管等によって地下に移し替えられたもの
であるべきでしょう。
反対に、図の下半分、
本来そこにあった水の流れが地表にも地下にさえもなくなってしまった場所
は「単なる水路跡」と呼ばれるべきでしょう(ここで川跡と人工の用水跡と両方を含ませるため「水路跡」としています)。

さて、実はここで「水路跡」でなく「単なる水路跡」としたのはワケがあります。
「水路跡」と言ってしまうと、実はこの図でいう「広義の暗渠」とほぼ同じ意味範囲になります。すなわち『「水路跡」=「広義の暗渠」』です。

これまで私はさんざん暗渠暗渠と言ったり書いたりしてきましたが、
実はそれは水路跡水路跡と言っているのと同じ・・・?
「広義の」とかいちいち断らなくていい分、「暗渠」よりも「水路跡」と言ったほうが
適切かつ素直なコトバ選びなのかも知れませんね。

でもね、拙ブログ「東京Peeling!」の中の暗渠記事は
「暗渠ハンター ○○○○」でずっと通してきたし、
いまさら「水路跡ハンター」に変えるのもなあ…w
名刺に書いてる「中級 暗渠ハンター」もなによ、「中級 水路跡ハンター」に?
うーんなんだかなあw
昨年お手伝いさせていただいた暗渠本『東京「暗渠」散歩』も、
もしかしたら『東京「水路跡」散歩』?

これはいかんですねw
こうしましょう。下半分を表す「水路跡」というコトバを、上半分との対比をはっきりさせるために「ぬけがら水路」としてみます。
Photo

ちょっと落ち着いてきましたかね。

話を戻します。
いままで私が暗渠と言ってきたものは、上の図のような分け方ができますということです。
もちろんどっちも好きです。
狭義の暗渠」に対しては、
流れが目に見えなくなってしまったけれど、人知れずその地下でとうとうと水を流し続けている水のいのちのようなものを感じます。その暗渠として「第2の人生(川生)」を送る健気なライブさというか。
ぬけがら水路」には、
かつてあった流れと今の状態の対比からの栄枯盛衰というか、そこにある水の履歴の儚さを思って不思議な気持ちになります。そんなとき、今そこに地下にさえ水の流れがなくとも私には何かの流れを感じることができる、そんな感じ。以前何度かこのブログでもこういう場所を「形而上の暗渠」と呼んだりしてきたのはそのためです。

2 狭義の暗渠 の細分化

さてさて、「暗渠」と「川跡・水路跡」については一旦ここで整理がついた、
としましょう。
蛇足ですが、ついでですので「狭義の暗渠」をもうすこし分解して遊んでみます。
暗渠を追っているときどき
「古地図ではこのブロックを横切って川が流れていたんだけど、
今の下水道台帳では廻り道をするように道に沿って付け替えられてるじゃん」
というケースに当たりますよね。
そこで、

下水管がある・なしの縦軸に加えて、
自然のままの流路か・人工的に付け替えられた流路か
を横軸に加えてみましょう。

Photo_2
左上、自然のままの流路で暗渠化されたものを、「ナチュラル暗渠」と呼んでみましょう。
かつての水の流れがそのまま地下に移された、いわばそっくり川の生まれ変わりとして暗渠になっている状態。
いっぽう右上は、宅地化や区画整理などによって本来の流れとはちがったところに暗渠かされたケース。これを「アレンジ暗渠」と呼びます。
まあ本来の川の表情に整形手術を施したようなものです。でも本来の流れから少しだけ変えた程度のものが多いでしょうから、「プチ整形」くらいですけどね。
というわけで、暗渠を追っていくうちに「地下の流れが直下にある・ない」と別れるところが出てきますが、あってもなくてもこ私はういう呼び名をつけることで両方を平等に有難がりたいなと思うわけです。

3 (付録)ぬけがら水路 の細分化

はさらにワルノリしてオマケ…。
同じ横軸で、下半分の「ぬけがら水路」を区分したらどうなるかな、と。
Photo_3
ひからびたぬけがらとなってしまっているところなので、こんな名前を付けてみましたー。

というわけで、たまに書いてるヘリクツ編。
今回は暗渠という言葉の私なりの定義づけでした。
ではでは今後とも、「暗渠」ハンターシリーズをどうぞよろしくお願いいたします。

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暗渠ハンター 遊泉園跡とそのまわりのことなど

前回は遊泉園にまつわるお話でしたが、
今回は現地の様子を。

より大きな地図で 杉並以北でまとめてみよう を表示

1 遊泉園跡

またまたはじめから横道にそれますが、
私はこの日、中耕地川を上流に辿って現地にアプローチ。
その途中でまた日曜寺の橋跡をチェック。

Img_7759

そうそう、先日図書館で見た板橋区教育委員会による「文化財シリーズ第56集 写真は語る」に、
昭和初期の日曜寺の写真が載っていました。
ちょっと著作権上問題があるかと思われますので写真の転載は控えますが、
当時のこのお寺の周りは一面田圃。
そこにぽつんと日曜寺があり、
正面にはこれとほぼ同じかたちの橋がかかっていました。
お見せできないのが残念。

本筋にもどります。
石神井川がかくんと直角に流れを変えるその突端内側に、
遊泉園はありました。この向こう側です。
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しかし。乗りこんでいってさんざん歩きまわりましたが、
痕跡をみつけることあたわず。
跡地はこんなふうになってます。
Img_7765

Img_7766

Img_7767

ようやく一基の車止めを見ることができましたが、
これが暗渠かというと、うーん…。
Img_7768

遊泉園の跡地には、
福泉寺というお寺が昭和17(1942)年に移転してきます。(前出「いたばしの地名」より)
それが今でもありますね。この写真の右側のところ。
Img_7769

移転・造成にあたっては結構な量の盛り土をしたのかも知れません。

さーてほんとに跡かたもなかったので、
いくつか周辺の見どころもご紹介することにしましょう。

2 中板橋駅前5連式直列マンホール

落胆しながら中板橋駅方面に歩を進めていると、
中板橋25-5、駅前至近距離にこんな路地を発見。
Img_7771

すっかり「道は細いほうに行け」という暗渠者の生態が染み付いてしまっているので
吸い込まれるように入っていきます。

おおー、マンホール多発地帯ですね。
Img_7773

惜しい!おしくらマンホールもどきがありました。
Img_7774
なかなか真性おしくらには出会えないんだよねーなかなか。

などと思いながら突き当たりの角を曲がって進んでいくと…。
うえっっっ!! ナンダコレ…。
Img_7776
5つのマンホールが、すばる座状というより
ほとんど直列に並んでいます。

しかもその中のひと組は「真性おしくらマンホール」ではないですか!
Img_7777
これはすごいものを見た!!
(私のデジカメ、写した順に4ケタの数字が自動的に割り振られるのですが、
帰宅して整理してたらこの写真がなんと
「7777」番!さらにすげえ!!←はい、完全に私サイドの話ですみません;;;)

これは中板橋の住民の方々は大いに誇っていい物件だと思います。

3 左岸のあげ堀

最後は、違う日に撮った写真だけど近いからここにまぜちゃおう的なところ。

この近辺の右岸には、あげ堀がありました。
上流は桜台の安養院というお寺のあたりです。
安養院の中にはこのあげ堀跡が今でも残されています。

さてあげ堀というからには
石神井川の水を田圃の用水に使うために分水しているわけですが、
その分水地点から安養院の間で田柄川と交差しています。
この交差がどんな具合だったのか(立体交差?事実上合流?)は、
また回を改めて考察したいと思いますので今回はさくっとスルー。

地図によってはこのあげ堀のことを堂々と「田柄川」と書かれていたりもするし、
「文化財シリーズ第52集板橋区河川調査報告書 いたばしの河川」(板橋区教育委員会 S61 年)には両者きちんと区分されて書かれていたりします。
まあそんなふうに、このあげ堀は田柄川である・とも
田柄川とは別物である・とも言える
アンビバレンツな水路なわけです。

その「田柄川と呼ばれることもあるあげ堀」はこんな姿で最後を迎えます。
Img_1293

このあと一旦石神井川に合流。川の壁面に合流口がありました。
Img_1294

さらにこのあとあげ堀は下流へと続きます。
現在は雨水をまめに吐きだすために上の写真のように石神井川との合流口が設けられていますが、
昔はここでは敢えて石神井川には接続させなかったのだろうと思います。
なぜなら、あげ堀とは
【一時的に本流を堰き止め、そこで得られた圧力で本流より標高の高い土地に水を流していく】
というある種の加圧装置ですから。

このあとあげ堀は川越街道を横切り、
Img_1286

環七沿いを北上し一旦環七の西側に出て、
直角に進路を変えて石神井川合流地点へと向かいます。
Img_1267

ここは過去の地図ではこんなふうになっています。
(「東京時層地図」より転記)
Img_1268_2

環七を東に抜けた後はようやく暗渠らしい佇まいになって
Img_1271

この先で合流。
Img_1274

合流地点の対岸が、遊泉園跡地となります。
おお、話のはじめに無事に戻ってきたw

最後に久々にnamaさん的にこの日たべたゴハンのことなど。
この日は東武東上線のときわ台駅に初めて降り立ちました。
食事ができる大衆食堂を探して南口に。
そこにあったのがとんかつと定食の「三笠」です。
飛び込みですが、思い切って入ってみましょう!
Img_1263

日替わり定食である「コロッケととんかつ定食」750円を注文。
ラードの香りのするコロッケや、
極めてふつうの(←褒め言葉)とんかつがビールに合う良店でした。
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暗渠ハンター およぎ場、遊泉園の光と影。

板橋区中板橋。
地名に先駆けてできたのが東武東上線・中板橋駅であり、
その駅名を関してこの地名ができました。
駅の開業は昭和8(1933)年7月

さらにこの駅は、もともとはある施設へのアクセスのためにできた駅。
それが遊泉園、というプールですね。
今回の参考文献「いたばしの地名」(板橋区教育委員会)では、
プールではなく「およぎ場」と記載されているのが興味深いです。
当時はそう呼んだのかしらん。
それはともかく、およぎ場の大きさは縦50m、横25mという大きなものだったようです。
板橋区のHPには貴重な当時の写真が載っていました。
賑わってますねー!

地図ではここ。

Photo

※写真は「東京時層地図」の昭和戦前期(昭和3-11年)から転記。

ちなみに「東京時層地図」の明治の終わり(明治39-42年)地図ではまだ遊泉園は記載されていません。

Photo_2

この遊泉園のはじまりについては、
先ほどの資料「いたばしの地名」wikiの記述を比べてみると、
若干の違いがあって興味深いです。
両者から要旨を引用させていただきますと、以下のようになります。

「いたばしの地名」説>説→
・昭和4、5年頃、中板橋30番あたりに川の湾曲部に遊水地があった。
・これを、夏だけ地元の人(地主さん?)が臨時のおよぎ場として提供した。
・大人気だったので、町の有志連が出資金を持ち寄って「遊泉園」としてオープンさせた。
・利用者は下板橋か上板橋から炎天下をとぼとぼと歩いてきた。
・その後地元有志が東武と掛け合って、夏だけの臨時駅をオープンしてもらった。

wiki>説→
・大正15年、東武鉄道が中板橋仮停留所を設置、夏期のみ営業を行った。
・翌年以降も板橋遊泉園入場客の便宜を図るため、1932年まで毎年夏期に仮停留所が開設される。
・1927年(昭和2年)板橋遊泉園が開設される。

wikiの書き方だと、すでに大正15年には遊泉園の前身があったことになり、
さらに(おそらく法人として)遊泉園が「遊泉園」になったのは昭和2年、としていますね。
※ちなみに「いたばしの河川」(板橋区教育委員会)でも「遊泉園の開業は昭和2年」という記述が見られます。

一方中板橋駅の開設については、どちらも昭和8(1933)年としています。

この両者の歴史記述の違いは、
遊泉園利用者の行動の違いに直結するのでそれを想像するとこれまた興味深いです。

<「いたばしの地名」説に則ると>→
・中板橋駅ができるまでの4、5シーズンくらいは、遊泉園利用者は炎天下に上板橋もしくは下板橋から汗だくで歩いてやってきた。
(現在の両隣駅、ときわ台駅は昭和10年の開業ですが、大山駅は昭和6年の夏の終わりに開業。すなわち中板橋駅開業までの昭和7年の夏は、遊泉園利用者はきっと大山駅からやや汗だくで歩いてきたのでしょうね

wiki説に則ると>→
・遊泉園開業当初から、夏季だけでもそば(のちの中板橋駅)に電車が停まった。
(ので、何キロも歩いて汗だくになることはなかったでしょうね)

まあ後者のほうがスマートでしょうが、
もしかしたら前者のほうが
「遊泉園で涼しいひとときを!」という提供価値が
相対的に高まったかも知れませんねー。

両者の比較はここまで。

次は中板橋という駅名について。
いたばしの地名」には以下のようなことが書かれています。
・そして昭和8(1933)年の中板橋駅開設にあたって、
(たぶん東武が、誘致した地元有志に対して)駅名の即答を求め、
「下板橋と上板橋の中間なので中板橋にします」となった。

しかしこの「即答を求めた」エピソードには謎が残ります。
遊泉園という集客装置は東武にとっても重要だったはず。
なのに、なぜその名を冠しなかったのでしょうか。
地元有志も、地元資本の対立関係などがあって単純に
「遊泉園にだけデカイ顔させるかいな」という思いもあったのかも知れませんね。
これは想像ですが。

それにしても、もしこの駅が「遊泉園」という駅名だったら、
今も「板橋区遊泉園5番」とか「遊泉園30番2号」とかいう地名が残されていたかもしれないし、
「遊泉園駅前ふれあい商店街」や「メゾンド遊泉園」「遊泉園ハイツ」
なんていう集合住宅が残っていたかも知れませんね。
それはそれでちょっと楽しかったかも。

今回最後の話題は、遊泉園のさいごについて。
そんな遊泉園でしたが、昭和12年頃(正確な年は不明)には閉鎖されてしまいます。
もしかしたら、中板橋駅名を決める昭和8年くらいには
すでに遊泉園の勢いは下降していたという可能性もありますね。
石神井川の水を導いた遊泉園は、
石神井川の水質にその運命を握られていたともいえます。
谷戸ラブさんのブログでは
「近辺に移転した数軒の牧場の排水によって水質が低下した」と記されています。

さらに。
ちなみにとしまえんのプールは昭和4(1929)年に開業。
二子玉川園のプールは大正14(1925)年開業。
プール設置の時期は不明ですが向ヶ丘遊園は昭和2(1927)年開業。
昭和初期は、大資本によるレジャー施設開設ラッシュ時。
この大競争に巻き込まれ、敗れ去っていったのが遊泉園だったのかも知れません。

さてその遊泉園の痕跡があるかとかの地を訪れてみたのですが…。

という現地でのお話は、次回をお楽しみに!

今回記事の参考年表です。

Photo_2

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暗渠ハンター オチのない内川支流の話。

「大田区の文化財 第25集『地図で見る大田区』(2)」
という資料を眺めていたら、こんなものを見つけました。
そう、真ん中に流れる川(オレンジ色)は、内川。

Photo

明治19年測量、というこの地図には、
西から内川に合流する支流が二本くっきりと描かれています!
赤い丸のところ。

以前内川をたどっていて偶然見つけたのは
もうちょっと上(北)のほうに位置する暗渠でしたが、
このあたりに暗渠なんてあったっけな…。

でもこんなに堂々と書かれているんだから、痕跡がないならないでいいや、行ってみよう!
と鼻息も荒く出かけていきました。
大正9年の測量時にすでに消えているんですけどね。

まあ地形図でもね、こんなくっきり谷があるし、
Photo_2

なにか面白いことが待っているかもしれないし。
(東京地形地図さん毎度引用させていただいてます、ありがとうございます。)

一応東京都の下水道台帳をみるとこの川筋には合流式の下水道管が通っているので、まあ暗渠と呼んで差し支えはないかと思うんです。

以下、便宜上それぞれの住所から、南側を西馬込2丁目支流、
北側を西馬込1丁目支流と仮に呼ぶことにして話を進めてまいります。

■ 西馬込2丁目支流

2丁目支流は、南馬込5-27あたりで内川に合流します。
ちょうど都営地下鉄西馬込から延びてくる商店街の谷のところ。
一見なんの変哲もない商店街。
Img_0042

このあともなんの変哲もありません。
ただ、両脇を見るとぐぐっと下がった谷地形であることは間違いない。
Img_0044

Img_0045

国道1号線・第二京浜とまじわるところには、
文化堂というスーパーがあるのですが、
何かの資料で「ここに昔湧水があった」と書かれていましたので、
その湧水はこの西馬込2丁目支流にあわさって
内川へと流れ込んでいたのだと思います。

第二京浜を越えても川らしい跡が浮き上がってきません。
Img_0048_2

今日はテンションが低いまま終わってしまうかも知れません。
いまから覚悟しておいてください。
大阪の人と飲んでるときにオチのない話をして怒られたことがありませんか?
そんな感じ。

道端に公園。
お。
なんか川っぽいもの発見!
Img_0050

でもこれ、絶対ダミーです。
でもこの公園の端っこが急にがくんと低くなっていて、
おそらく谷頭部はこのへんなのだと思います。
Img_0052

その谷頭の上のほう、西馬込2-9の界隈にはちょっとした路地が。
Img_0055

特定はできませんが、配水路などがあったような風情です。

よくわからないまま、谷はほんとにここで終わります。
新幹線(横須賀線)の切り通しのところ。
Img_0058

ちょと線路を覗いてみましょう。
Img_0061
うわーほんと深いなー。
と、ほとんど痕跡が見つからないまま線路沿いに北に進んで、
次の西馬込1丁目支流の谷頭部に移ってみましょう。

■ 西馬込1丁目支流

この切り通しの尾根を北に進むと、谷が現れてきます。
Img_0063

谷底には階段で下っていきますよ。
谷頭部から下流を見ると、こう。
Img_0064

いいですね、いい谷です。

あ、川と無関係だけどなんだかかわいらしいガードレールがありました。
Img_0067

地形だけを頼りに想像すると、
この西馬込1-26のブロックの中を斜めに進むようです。
Img_0070
かなり怪しい場所ですがやはり決め手がありません。

次の1-27のブロックには公園。
ここが谷底です。
Img_0072

この時は冬だったので枯れていますが、
公園内には水のモニュメント的なもの。
Img_0076

まあ冒頭の明治19年の水路はここを通っていたと考えて間違いないでしょう。

その先も変哲のない谷底道を進んでいきます。
Img_0079

うわ、谷に向かう斜面は農耕地!大田区らしくない場所ですねー。

まああとはやはり退屈な寝物語のように進んで、
内川の合流点を迎えることになります。

どうですか今回のこのオチのない感じ…。

今回の地図はこれです。

より大きな地図で 内川と不入斗新井宿村用水など を表示

■おまけ
ここで終わるものほんとにアレなので、
当日に見つけた蓋暗渠を一つご紹介します。
以前、「池尻堀 大仏支流」として
西大井5丁目あたりの谷のことを書きました。
その時は、
大仏支流が新幹線(横須賀線)の高架を越えた所の蓋暗渠について触れましたが、
実は高架を越える前のところにも
見事な蓋暗渠があることにこの日気がつきました。

短いけど、立派なやつです。
見てくださいこれ。
Img_0186

奥の家のわきから始まって、
こんな風に足元を抜けていきます。
Img_0187

蓋の素材が変わりまして、高架の土台と家の間に消えていきます。
Img_0188

この家の裏側を通っています。

Img_0189

「止まれ」の標識のところはもう大仏支流。

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